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足の踏み場がない、という従兄弟のぼやきをヘッドホンをつけていない片耳で聞きながら、田野倉奏多は振り向かずに、ミキシングのレバーを少し上げた。
他の音よりほんの少しだけ小さくて、埋もれそうになっていたベースの音が近づいてくる。
レバーを軽く指で叩いてリズムを取り、満足のいく音に目元をかすかにやわらげて、ヘッドホンを外した。
今調整したところを保存するのは忘れない。
ガサガサと足の踏み場とやらを作っている従兄弟に、背中を回転いすに鎮めながら体を向ける。
来訪者に冷たい視線を向けて、奏多ははぁ、と息を漏らした。
「さっきからうるさいんだけど」
「おまえ、片付けは一週間に一回はしろって言ってるだろ」
従兄弟――大月佐智は、奏多が一週間前に脱ぎ捨てたままベッドの上で丸まっていたダウンをハンガーにかけた。ついでに自身のトレンチコートも隣に吊るして、世間でイケメンプロデューサーとして騒がれているらしい顔を歪ませる。
「片づけなくても困らないから」
「そういう問題じゃない。第一、客がきたときどうするんだよ」
「サチ兄しかこない」
ここ一年で顔を合わせた人数は、片手で足りるだろう。
奏多の住むマンションの一階にテナントとして入っているコンビニの、深夜勤務でいつもやる気の無さそうな顔をしている青年。
注文した商品を届けにくる、黒い猫がマスコットの大手宅配業者のおじさん。
そして、佐智。
友人も恋人もいない。訪ねてくる身内と言ったら佐智ぐらいである。
気にする人目がないのだから、片付ける必要もない。
大きめの椅子の上で膝を抱えて、軽くベッドの上の服を整理しだした佐智を眺めながら、何年か前から愛用しているジャージの膝の部分が擦り切れかけていることに気付いた。
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