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 自分用のコーヒーのプルタブを開けた佐智は、呆れ顔で缶に口をつけた。  視線の訴えはもちろん無視して、時たま緑茶で口内をリセットしつつパンを完食した。よくよく思い出せば、昨日の夜も何も食べていなかった気がする。  久々の栄養に、体がほっと緩むのを感じた。  頭に血が回り始めると、眼鏡の汚れも気になり始めた。Tシャツの裾で白ずみを拭って、クリアになった視界に満足する。 「で、ほんとに何の用」  重ねての奏多からの問いかけに、佐智はすぐには答えずに部屋をぐるりと見回した。  1LDKの寝室部分の七畳フローリング。スプリングのバネが経年劣化でキシキシと鳴りはじめたベッドと、唯一こだわって最新鋭のミキサーを始めとする電子機器で埋もれた部屋が、ほぼ引きこもりの奏多の寝室兼仕事部屋である。  ベッド脇のラックに無造作に詰まれた未開封のCDの山に、鞄から取り出した新たなCDを重ねながら、佐智が切り出した。 「仕事いくつ溜まってる?」 「今やってるので終わり」 「じゃあ、も一個追加」 「え」  今度は奏多が顔をしかめる番だった。  奏多の仕事は、主に佐智が持ってくる曲のミキシングと仮歌取りだ。たまに編曲もするが、本業は何かと問われればミキサーと主張したい。たとえ仕事量が仮歌の方が多くてもだ。  この仕事を始めたのは、当時はレコーディングディレクションをしていた佐智が、行くあてがなかった奏多にこの部屋と機材を与えたことがきっかけだった。  最初は、仮歌を取らされた。  そのあと、もらって無理やりきかされたマスタリングCDに文句を言っていたら、ならミキシングもやれ、と、ド素人の奏多に無理難題をふっかけてきた。
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