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最初は奏多自身に契約書についてもやらせようとしていたのだが、仕事を受けたての頃に奏多が面倒くささを理由に契約書の署名と返信の作業を放置したことがあった。
あわやゴミ箱に、となって、佐智はこのことに関して奏多にやらせるのを諦めたらしい。奏多の確認もなく判を押して、奏多に似せた字で佐智が署名をずっとしている。
私文書偽造だのなんだの、と最初はブツブツ言っていたが、奏多から言わせてもらえば、最初から佐智が全部やっておけば面倒はなかったのに何を気にしているのか。
奏多は多分、佐智に奏多にとってかなり不利益なことを無断で契約させられても、文句は言わない自信がある。
この部屋で、奏多の息を長らえさせているのは、佐智の意志だ。佐智がもう奏多を見放すと言うのであれば、それは――少しだけ残念だけれど、しょうがない。
今の今まで、こんな自分の面倒を見続けてくれているだけでも、かなりの奇跡だ。
「まぁ、今回は仮歌だけだから比較的楽だと思うぞ」
「……仮歌が一番嫌いなんだけど」
「残念だったな、お前への依頼で一番多いのは仮歌だ」
むぅ、と唇を尖らせて不満の意を示すと、佐智が笑った。
「今回は一曲だけど、間をあけないで出す予定のアルバムでも、新規は全部お前に頼むから」
「冗談」
「本気。だから、このシングルは聞いておけよ」
一旦は置いたCDをラックから取り上げて、佐智は立ち上がった。部屋の半分が機材に占拠されているために、広めの七畳間と言えども数歩足を動かせば端から端まで簡単に移動できる。
佐智は奏多の目の前まで来ると、菓子パンを渡してくる時とは違い丁寧にCDを手渡してきた。
投げたほうが早いのに、とは思っても言わない。
佐智は、自身が担当したアーティストの作品を大事にしている。
――世にでない奏多の仮歌でさえもだ。
渡されたCDのジャケットには、世の若い女性が好きそうな色男。今時珍しく染められていない黒髪は短く、何より、光の反射によって金色にも見える薄い茶色の瞳が印象的だった。
「顔売りのアイドル?」
「これでも歌は一級品だぞ」
「加工すれば音痴でも聴けるようになるし……」
聴けるように加工するのが、奏多の仕事でもある。
佐智は、ひねくれて見すぎだと奏多の頭を小突いた。
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