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一 タヌキ
五月十九日、水曜、午前九時。
「高橋。走れ。この計画で突っ走れ!」
育善会総合病院の遠藤悟郎院長は、理事長の高橋裕を睨みつけた。こうでもしないと、この男は石橋を叩いたまま考えこんで動こうとしない・・・。
「しかし、院長、担当者が動いても、委員会の決定がどうなるか、わかりません」
その場で足踏みするように、高橋裕理事長はおどおどしている。
「だから、何度も言ってるだろう。とにかく担当者に話をつけろ!結果の事を言ってるんじゃない!こっちの要望を伝えなければ、委員会の言いなりだろう。
お前は、ここを潰したいのか?」
「そんなことはありません」
「だったら、早く担当と会え!ぐずぐずするな!」
「はっ、はい!」
慌てて高橋理事長が院長室から出ていった。
遠藤悟郎院長はスマホをとって短縮ダイヤルへ連絡した。スマホを耳に当てた遠藤院長は椅子を回転させて、窓の外、北西の山麓に続く丘陵地に視線を移した。
「サスケです」
とスマホから通話相手の声が聞えた。
「サスケ。例の委員会、今度は、我々に靡きそうな者が誰か、一人一人の意見を探れ。至急だ。今月中に、委員会の意見を我々に同調させねばならん。その方も頼むぞ」
「はい・・・」
「今度はヒットアンドペイではなく、事前に情報を伝えておくよ。その方が動きやすいだろう」
遠藤院長は通話を切った。情報は「資金」、伝えるは「振り込む」の意味だ。金の流れを知られてはならない・・・。
タヌキめ、また、あそこを眺めてるのか・・・。俺にも仕事がある。昼も夜も連絡してきて、どうしろと言うんだ・・・。
佐介は社会部がある信州信濃通信新聞社の五階から、北西の山麓に続く丘陵地に視線を移した。二日前の五月十四日から気温が上がり、蝉が鳴きはじめた。
サスケの原因となった飛田佐介とは妙な名前をつけたものだ、と飛田佐介は思った。
実際、名前を決めたのは、祖父の佐太郎だ。飛田の苗字の雰囲気と、俺の機敏な思考と行動から、サルトビサスケと呼ばれたのは小さい頃からで、その呼び方が今も続いている。だからと言って容貌がサスケ的ではない。いたって精悍で知的だ。
「サスケ、今日の取材先だ。チェックしとけよ」
小田真理が佐介のデスクに取材リストを置いて自分のデスクへ去った。
地方紙の記者は人員に制限がるため、紙面のあらゆる欄を担当する。担当があって無いに等しい。それなのに、名ばかりのデスク(編集長)の真理は何かと上司風を吹かして佐介に命令する。反論すれば、自分の名を叫んでいるのに気づかずに、「おだまり!」と一喝するだけだ。
「サスケ、遠藤院長から何だった?」と真理。
「例の『老齢者医療施設医療設備計画』の情報が無いか、確認だよ。
例の委員会で、遠藤院長になびきそうな者が誰か、一人一人の意見を探れだってさ」
「自分たちで話し合った方が早いだろうに、タヌキ、何を考えてんだ?」
真理はデスクに頬杖を突いて考えこんでいる。
いくら考えても、遠く離れたタヌキの考えはわからないだろうと佐介は思った。
真理の判断は主観的かつ感覚的だ。客観的に物事を判断しない独断的性格で実証性に欠ける。要するに感性で判断し、独断と偏見で物を見る性格だ・・・。
育善会総合病院の遠藤院長が佐介に連絡してくるのは、佐介に弱みがあるからではない。市が設立した給付型奨学金制度を利用したため、審査員だった遠藤悟郎院長との縁ができた。つまり、返還無用の奨学金を得て大学を卒業した佐介は、奨学金給付の条件
「大学卒業後は、十年以上、地元に定住し、地元企業に従事すること」
のとおり、地方紙「信州信濃通信新聞」の記者になって地元に定住している。
地元と言うが、この人口四十万にも満たない長野市は、佐介の地元ではない。ここにある大学を出た佐介にとって第二の地元だ。
御多分に漏れず、少子化に加え人口流出がめだってきた長野市の医療事情は深刻だ。
医療を必要とする老齢者は増加するものの、若年層が減少しているため、財政か逼迫している。そこで、老齢者の医療体制を見直す計画が進行して『老齢者医療施設』の建設が議会決定して施設内の医療設備を検討する段階で、市内の医師会が真っ二つに割れた。
総合病院にとって、新たな老齢者医療施設の存在は、総合病院の存在を脅かす何物でもない。
「そんな物を造るくらいなら、総合病院内に老齢者向けの施設を増設した方が、既存の総合病院を存続させる可能性が高い」
と総合病院の医師派は主張する。
これに対し、開業医派は、
「総合病院のサラリーマン化した医師が、自動車修理工場で部品交換するように、なんでも手術で片づけて医療収入を増やそうとしている。
医療行為は患者と向きあい、患者の精神を健康にしなければならない」
と主張して、新たな医療施設建設に意欲を示した。
開業医派は、新たな医療施設に各開業医が各々の専門科を開業する事を提案した。いわば、ショッピングモールのような、新たな医療施設の考えだ。名目は老齢者総合医療施設だが、実態は独立した専門医院の集合体だ。市内にある開業医の別院が集合した、老齢者専門の収容施設を完備した総合医療施設だ。
その結果、総合病院の医師派は、自分たちの存在を脅かすとして、開業医派と対立した。とは言え、表立って何かをするわけではない。今のところは・・・。
午前十時三十分。
「サスケ!行くよ!グズグスすんじゃないよ!」
真理が喚いた。取材用の機材を持てと目で示している。
たまには、自分で準備したっていいだろうと思いながら、佐介は機材ケースのベルトを肩にかけて真理の背後に立った。真理は佐介より頭一つ分背が低い。佐介が抱きしめれば、真理の全てが佐介の腕の中に隠れる。力を入れたら潰れてしまう。そんな事を考えながら社会部を出て、通路を急ぐ真理の跡を追った。
真理が立ち止まった。薄茶のカールした長い髪を靡かせて、クルリと向きを変えた。
「サスケ。気持ちはわかる。視線、感じたよ。
だけど、社内では人目がある。あたしの腰と尻を見るんじゃないよ」
黒縁のメガネの奥から大きな目が佐介を見ている。言葉と違って目は笑っている。
「いや、見てないよ」
佐介は確かに真理の後ろ姿を見ていたが、特に視点を特定な部分に定めてはいない。真理の腰は括れて尻は形が良いのは確かだ。そんな事は口にできないが社内の誰もが暗黙のうちに真理のスタイルを認めていて、佐介に羨望の眼差しを向けているのを佐介はいつからか感じていた。
「じゃあ、どこ見て歩いてるんさ?」
真理が向きを変えた。セカセカと歩きだした。
「後ろ姿全体と、床を見てた」
「そうか・・・。見てもいいんだぞ。誰も居ないから・・・」
佐介は、そういう真理がいくぶん肩を小さく丸めたような気がした。
確かに通路を歩いているのは俺たちだけだ。真理は急に何を言うんだろう・・・。いつも偉そうにいろいろいう真理が、今日は何か変だ。きっと後でとんでもない事を言いだすんだ・・・。そうに決まってる・・・。
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