一章   玉姫の森

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   頂上が近づいた辺りの岩肌に、小さな屋根が掛けられた場所があった。そしてその下には清水が湧いていた。脇に弁財と彫られた石碑が立っているところを見ると、水神様なのだろう。水舎になっていた。  手を洗い、口をすすぐ。長々と上ってきて木のトンネルを抜け、最後の石段を踏みしめた時には、フーッと一息つきたくなるものだ。上りきると、幾つもの大石と、不揃いに立つ大木の隙間を透して、正面に玉姫神社の祠が見える。岩の祠の上には、小振りながらも立派な造りの屋根が掛かっていて、その岩戸の前には小銭が小さな山を作ってあった。   鳥居を潜り社の前まで進む。ポケットから小銭を取り出し、その銭山の上に乗せた。軒から下がっている鈴を鳴らし、二拝二拍手一拝。お参りの仕方は家の神棚で何度も教えられている。何故そうやるのかは分からないのだが、教えられた通りに覚えている。   そして参拝を終えて振り返り、石畳を戻りはじめたとき、誰かが石段を上がってくる気配を感じた。鳥居を抜けた処で待っていると、最初に艶やかな黒髪が見えた。そのたっぷりの髪は額の真ん中から左右に振り分けられ、後ろで太く束ねられていた。そして美しい白い顔。切れ長の優しい目が、ゆっくりと現れながら光一の顔を見つめている。薄い桃色模様の単衣の着物。赤い鼻緒の草履を履いていた。   その奇麗な女の人は光一の目をじっと見つめたままで、すぐ脇を通るときに少しだけ微笑み、こんにちはと声を掛けてくれた。通り過ぎて後ろ姿になったとき、光一は漸(ようや)く我に還ったように、小さくこんにちはと挨拶を返した。   あの時、後ろ姿になるまでずっと目が離せなかった。魔法にでもかかったような感じだった。そして鳥居を潜っていくその人からほんの一瞬目をそらした時、神社の前には誰もいなかった。   光一が一人で玉姫神社に上った小学五年生の夏、そんな想い出がある。そして後から思うと、神社にお参りをしたあの時、特に願い事などはしなかったのだが、手を合わせながら胸の中で、こんにちはと唱えたことを思い出した。    遼一の蝉も何匹も捕れた事だし、この村に来たからには、先ずは村の守護神に挨拶をしておこうと思い、こうして二人で玉姫神社に上ってきた。今日の祖父は気を付けろと言っただけで、行っちゃいけないとは言わなかった。光一がもう大人になったとみているからだろうか。
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