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その男はアドルフと名乗った。
「俺はアドルフ・リンクっていうんだ。小さな料理屋に居着いた、しがない軍人さ」
「何が小さな料理屋よ!
兄さんが軍人になるとか言うから!私が母さんの店を受け継いだのに!母さんに失礼じゃない」
「だってよエレナ、『小さな料理屋』なのは間違いないだろ?」
アドルフさんが私を背負って来た場所は、こじんまりとした小洒落た料理屋だった。
何が起こったのかがさっぱりわからず、私はただ呆然とアドルフさんとエレナさん…後の『ママさん』のやり取りを眺めていた。
すると突然、小柄で美人なアドルフさんと同じ鈍色の髪の女性…エレナさんが屈み込み、私の顔を覗き込んできた。
驚きのあまりに、反射的に一歩引いてしまう。
そんな私を見て、エレナさんはふっと柔らかく笑った。
「怖がらなくて大丈夫よ。私はアドルフの妹のエレナ。貴女の名前は…?」
名前…。名前はある。母さん曰く、昔のお伽噺の、物語を紡ぐのが上手な女性と同じ名前。けれど皆は、何故か私を勝利の女神の名前で呼んだ。そして『それ』を穀潰しと蔑んだ。
「…し、×××××××らしい」
自分の口で自分の名を紡ぎ出すと、石を投げられたこと、蔑まれたこと、ぶたれたこと…嫌なことばかりを思い出してしまう。
『らしい』ということにしておきたかった。
そんな私を見て、アドルフさんは何故か悲しそうな目を私に向けていた。エレナさんは黙って私を抱き寄せた。どのくらい振りかな、誰かから抱き寄せられたのは。
酷く冷静な自分がそこにいた。
嬉しいことの筈なのに、何故か心が空っぽだった。
アドルフさんは私を抱きしめるエレナさんの横に立ち、私の頭をゆっくりと撫でながら言った。
「らしい、か。
自分の名前が嫌い?」
私は無言で頷いた。
「何でかは、聞かない方が良いよな?」
再び頷く。今は話したくなかった。
今思うと、アドルフさんは私の村が大火に襲われる以前に私の身に何かあったのかを察してくれていたのかもしれない。
「…よし、じゃあ、お前のことはこれから『シエラ』って呼ぶ!これなら大丈夫か?」
無言で頷く。三度目。
何となく名前にかする何かがあったが、あの名前で呼ばれないのなら良いや。そんな気持ちだった。
そんな私を見て、アドルフさんは満足気に笑い、エレナさんはただ黙って、私を優しく抱きしめてくれていた。
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