兄の虚実

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「あんな簡易な呪文で傷を完治させる力など、今の僕にはない」  首に巻き付く不吉な傷跡は、まだ真新しく、傷口を覆っていたガーゼには血が滲んでいた。  先程ほどこした呪文の効果は、傷の痛みを麻痺させただけだ。……治癒にまで至っていない。 「あなたは私を買いかぶりすぎなんですよ」  予想はしていたが、眼前の結果に忸怩たる思いが湧く。  今の自分は、神官だった頃とは比べ物にならないほどに非力で卑小だ。  ――なのに、弟は、信じきっている。  自分はそんな弟に対して、罪悪感よりもいっそ歯がゆいような苛立ちを感じるのだ。  「勇者」は「神官」のことを、汚濁を知らず、敬虔で清廉な神のしもべだと、――昔からそう思っているふしがあった。 「一緒に戦っていたのだから、わかっているはずなんですけどね」  卑劣なことも平気でするし、さして特別に慈悲深くだってないことを。 「いえ、知っていながらあなたは私が清廉であることを信じた」  だからこんなにも容易く虚偽に惑わされ、騙される。  彼は神を憎みながら神を信じていた。  そして、神の信者である神官のことも。  せめてもの正しさが、そこに存在したからだ。  しかし、逆に神官だった自分は、勇者に出会ったことで神に対する一筋の疑念が生まれた。  そして、その疑念は、時を経るごとに強く大きくなっていったのだ。  一人の人間にこれほどの責を負わせる神とは、果たして本当に正しき存在なのだろうか、と。  だから、親や周囲に対して体裁を取り繕う必要がない場面で、ごく自然に手を合わせた弟に驚きを禁じ得なかった。  なにに対して祈るのか。  あんなにも拘って拒絶し嫌悪すら抱いていた行為を、どうして、と。  バカバカしい話だが、裏切られたような気すらした。
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