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渉は呪文を唱え終わるタイミングで触れようとした口の端に、小さなパンくずの欠片がくっついていることに気づき、その動きを止めた。
どこか呑気で間抜けな光景に、渉の口元がほんの少し弛(ゆる)む。
「……慌てて食べるから」
まるでリスのように忙しなく口をもぐもぐ動かしていた弟の姿を思い出して、ふっと小さな笑みが零れ落ちた。
指で取っても良かったが、渉はわざとそれを舌で舐めとった。
そしてそのまま、わずかに開いていた弟の口の中にパンくずのついた舌を滑り込ませる。
雛に食餌を与えるように。
そんな陳腐すぎる口実で罪悪感をほんの少しばかり和(やわ)らげて、弟の口内を侵す。
舌に、コーヒーの香りと苦みがふわりと伝わってきた。
その残り香を味わいながら、口移しで『力』を解放する。
そうしながら、片手を首の傷に当て、そこからも治癒を施す。
内側と外側から、同時に治療を試みた。
こんなことをするのは、これが初めてだ。
――島外では、ほとんど効き目はなかった。
小学生時代の弟に同様の治療を施してみたことがある。山の学習で土砂崩れに巻き込まれたときだ。
弟と再会を果たしてすぐに、満身創痍だった弟に治癒魔法を行った。――だが、結果は自らの無力を突き付けられただけだった。
『力』を取り戻そうと決意したのはその時だ。
――あんなに己が無力さを痛感させられたことはなかった。
集中力を高めるための瞑想を習慣化し、人体の仕組みを学び、魔法の発現システムに類似した気功を修練し、『力』を増幅あるいは貯留するのに適した媒体を探した。
それが形になるまでに時間も手間もかかったが、――おかげで、まだまだ不十分ではあるものの『力』を使ってある程度の傷を治すこともできるようになった。
もっとも…、それもあくまで学園島内での限定した能力ではあるが。
残念ながら、島外ではこの治癒の力も半減する。
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