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その記憶は唐突に蘇った。
事故の起きたあの日のこと、彼女が死んだあの日のこと。
婚約指輪をした彼女の綺麗で血に染まった手の先に、一輪のコスモスが落ちていたこと。
そのコスモスの花びらが一枚欠けていたこと。
彼女がずっと僕の帰りを待っていたこと。
僕が次の花びらをちぎるのをずっと待っていたこと。
僕がそれに間に合わなかったこと。
忘れていた記憶は薄れていってしまっていたんじゃない。
僕がその記憶を消そうとしていた。
僕の帰りを待つ彼女の顔が、花占いを楽しみにしていた彼女の嬉しそうな顔が、恐怖に、痛みに、悲しみに、歪んだことを考えないようにしていた。
想像すると、心が締め付けられて苦しいから。
間に合わなかった自分の不甲斐なさに死にたくなるから。
運命を呪い続けて生きられなくなるから。
だからあの日から僕は逃げ続けた。
頭を抱えて、何も思わないように、ただ、ただ、空っぽに。
そして忘れようとした。
人は弱いから自らを守るけれど、その弱さに気づくのは自らを守る自分に気づいた時だ。
僕は記憶を閉じ込める自分に気づいて、自分の弱さを知った。
彼女を放り出して自己防衛に走った弱さを知った。
僕は、弱い。
僕は地面に膝をついたまま、自分を幻滅して、軽蔑して、嫌悪して、そして涙を流した。
こんなに悲しいことは無かった。
こんなに申し訳ないことは無かった。
───いや、それは嘘だ。
それよりも悲しい、申し訳ないことがある。
彼女がまだ、待っていることだ。
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