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少年は崖にいた。
配給所の帰りに寄り道して崖に来て衛兵達を眺めていただけの頃は本当に何も知らなかった。おじさんのわけの分からない話を聞いて配給所から持って帰った食料を食べて。
そんな暮らしのほうが良かったのかもしれない。別に本なんて読みたくもなかった。文字なんて分からなくてもよかった。居住区の地下から宮殿に行けること、膨大な数の本が並んだ図書館。何もかも意味なんて無い。何もかも要らない。そんなものはどうでもいい。
遥か彼方の宮殿を見た。
あそこに行ってこっちに戻って。それがどうしたというのか。それが、どうして秘密なのか。どうしてあの時、言えなかったのか。それまで何度も破っていたおじさんとの約束を、あの時に限って守ってしまったのはどうしてなのか。
どれだけ後悔しても尽きることは無かった。同時に不安もやってくる。会いたい気持ちが膨らむのと同じぐらい会うのが怖い。会って、信頼を裏切ったことを責められるのが怖くてたまらない。
崖の上から赤い堀まで落ちていくのにはさほど時間はかからないだろう。かかったところで意味は無い。飛び込んでしまえば時間が長くても短くてもすぐに終わる。何もかも。
崖の縁に立ち、遥か下の赤い堀を覗いた。怖い。どうしようもなく怖い。足が震えて動かない。一歩先の虚空には、どうしても踏み出せない。
また会えるかも知れないと言い聞かせてみる。ここで全てを終わりにはできない。言い訳なのは分かっている。分かっていても、言い訳せずにはいられない。
崖の縁から後ずさった。
まだ、終わりにはできない。
誰かいる。
視界の片隅に人影があった。いつか見た瓦礫を投げる男が立っていた。
「おまえに見せたいものがある」
男は少年を指差した。
動揺していた。誰かがいるとも声をかけられるとも思っていなかった。
「そうだ。自分と同じ髪型と背格好の若いのが来たら伝えてくれと頼まれた」
誰からと聞こうとして言葉を飲み込んだ。
そうに違いない。
男が信用できるかできないか、見た目だけでは判断できなかった。
けれど、この男に何かを託されている。それなら、信用できる。いや、信用する。しよう。
「来い」
男はくるりと身体の向きを変え走り出した。
少年は迷わず後を追った。
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