第1章

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 黒髪の家政婦は雇い主が言ったとおり、来客に一礼するとそのまま部屋の隅に控え、一言も口をきかなかった。  けれどその慎み深い沈黙が、かえって見る者の興味を引き、彼女から目をそらせなくさせてしまうのだ。こっちを見てくれないだろうか、もう一言、なにか喋ってくれないか、とね。だってそうだろ。誰だって、ぎゃんぎゃんやかましく吠え続ける雌犬より、いつ啼くかいつ歌うかと気を持たせる小鳥のさえずりのほうを聴きたいと願うものさ。 「もう、いやあねえ、なにそのドレス。まるでネズミじゃない! どうしてそんな恰好してるのよ。うちがろくに給料を払ってないみたいに思われるでしょ!」  ……いや。男爵家の給金は薄給だろ。あれじゃあろくなドレスも買えないよ。 「ね、ほんとに陰気な女でしょう? おまけに、見て、あの眼鏡! 女が眼鏡なんて、みっともないったらないわよねえ!」  どうやら男爵夫人は、自分の魅力を具体的に説明できないかわりに、他人をこき下ろすことで自分のステータスを相対的に持ち上げるつもりらしい。しかもそれに、他人の同意を強引に求める。  これはけっこう上手いやり方だ。同意を求められた人間は、客の立場で「いいえ、それは違います」とはっきりした否定はしづらい。あいまいにごまかすと、今度は男爵夫人に完全に合意したことにされてしまうのだ。  おまけに男爵家のお茶は、雑巾を絞ったのかと思うほど不味かった。  ぼくとしては、自意識過剰で出しゃばりな男爵夫人なんか無視して、黒いかっちりしたドレスにモブキャップ、装飾品らしきものは腰に吊した鍵の束だけという、滅多に拝めない姉さんの姿を、この目に焼き付けておきたかったのだが。  だって、もう十日も姉さんの姿を見ていなかったんだ。まさか姉さんが失敗するなんては思っていないけど、男爵家でつらい思いをしていないかと、心配でたまらなかった。  姉さん、なんだか顔色が冴えないように見える。大丈夫なのかな。  けれど姉さんはかたくなに視線を伏せたまま、ぼくのほうを見ようともしない。  声をかけて様子を確かめたいけど、ここで男爵夫人の機嫌をさらに損ねて、あとで姉さんがいびられたり、万が一男爵家をクビにでもされたら、元も子もない。 「そういえば、男爵閣下はご在宅ですか? 一言ご挨拶させていただきたいのですが」  ぼくは愛想の良い笑顔を男爵夫人に向けた。
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