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夫であるサー・ローレンスのことを持ち出すと、男爵夫人はとたんに目を逸らし、口ごもった。
だがここで深く突っ込んで、警戒感を持たれてはまずい。ぼくはなにも気づかないふりをした。
だいたい、言葉遣いもおかしいよ。貴族階級では、たとえ夫婦でも夫のことを他者に言う時は「男爵は」とか「子爵が」とかって称号で呼ぶべきなのに。「うちの人は」じゃ、ほんとに商人のおかみさんだ。
どうやら精肉業者のミスター・フレッチャーは、娘を貴族に嫁がせる時、多額の持参金は持たせても、貴族令夫人にふさわしい教養はまったく身につけさせなかったらしい。
玄関ホールで、禿げた執事からコートと帽子を受け取る。
男爵邸の人々は螺旋階段の下に並んで、ぼくを見送ってくれた。一度は立ち去ったジュリアンも、見送りには来てくれた。
「それでは、また」
軽く頭を下げながら、ぼくは確かに見届けた。
女主人の後ろに控え、まるで闇に溶け込んでいるかのように目立たない家政婦アン・メイザーが、行儀良く身体の前に揃えた手の指で、“三”と示しているのを。
三日後。姉さんとコンタクトが取れるのは、三日後だ。
使用人には一週間あるいは二週間に一度、半日から一日の休日が与えられる。おそらく姉さんの休日が三日後なんだろう。
ミドルトン男爵邸の玄関を出ながら、ぼくはその時が待ち遠しくてならなかった。
そして、三日後。
まだ朝靄も消えないうちから、ぼくはグロヴナースクエアの屋敷を留守にした。
辻馬車を二度ほど乗り換え、尾行がついていないことを一応確認する。そうやって用心しながら向かったのは、『王冠とアヒル』亭だった。
もっとも『王冠とアヒル』亭はこんな朝っぱらから営業はしていない。
ぼくは裏口へ回り、厨房へのドアをノックした。
「親爺さん、起きてるかい。ぼくだ、セディだ」
「おう、早かったな、坊主」
ドアが開き、ひげ面の親爺さんがぬうっと顔を出した。
「その、坊主っていうの、いい加減勘弁してくれないかな。ぼくはとっくに二十歳を過ぎてるんだよ」
「そうか。そりゃ悪かったな。なら、こっちだ、青二才」
……どっちもどっちだ。
親爺さんに案内されて、ぼくは二階の小部屋へあがった。
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