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「何すんのや」
不服そうに京さんが、子供の様に口を尖らせる。
「この御猪口を返してほしかったら、
私の左手の薬指に円形のものをはめてください」
「円形のもの?なんやそれ、チクワとかオニオンリングでもええんか」
「いいわけないでしょっ。京さんのあほ!」
ふざける京さんにそっぽを向いて、カレンダーに目をやる。
世界の絶景カレンダーは、京さんが新年に買って来てくれたものだ。
中でもお気に入りは四月のページにある、耳馴染みのない国の海。
蒼く、蒼く、澄んでいて、いつかここに新婚旅行で行けたら良いななんて思っていた。
けれど今はその下に記された「バースデー」の文字が苦い。この苦みはきっと日本酒のせいじゃない。
「なあ」
涙が出そうになるのをぐっと堪えながら、
人差し指の腹で、その文字をなぞっていると、京さんの気配を背後に感じた。
「え?」
「結婚したいん?」
言葉が落とされるのと同時に、
京さんが大きな体は、後ろから葉子の身体を抱いていた。
包み込むように優しいけれど、指先が震えている。
次第に腕に入る力は増して行く。強く、強く。
「えっ」
「薬指に、指輪欲しいん?」
「ええっ」
「こんな俺の奥さんになりたいん?」
「ええ…」
「おんなじ名字になりたいん?」
質問につぐ、質問にあたふたしつつも、肩甲骨に響く心臓の音に心地よさを感じる。
「…欲しいです、なりたい、です。駄目ですか」
難しい問題の解答を命じられた生徒みたいに、葉子の口はロボットみたいにぎこちなく動いた。
後ろにいる京さんが小さく「うん」と頷いた。
「でもな。俺、結婚ってもんが分からんのよ。
好きって気持ちは分かる、お前さんのことは好きや。
でも結婚ってもんはさっぱりや。紙切れ一枚やんけ。そんな紙切れが無くても、好きや愛しているって気持ちがあるんじゃあかんの?」
その声が、あまりにも寂しげで、冬深まる頃の風みたいだったので、葉子の心はきゅうっと締まる。
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