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次の瞬間、けんじは、さよ子の胸ぐらを突かんで
後ろににじり寄った。
さよ子のアパートの部屋は狭かった。
さよ子は、台所用のキッチンに
背中を押し付けられた。
いつの間にか、けんじは素早く
さよ子が台所に出していた
包丁を片手に持っていた。
けんじは、片方の手で、さよ子の
胸ぐらを押さえ、片方の手で包丁を
さよ子の頬っぺたに押し付けた。
ヒヤリとした冷たい感覚が
さよ子の背筋から、全身に凍りついた。
さよ子は、冷たい無表情の顔で囁いた。
「私は、わ、か、れ、たいの」
「手を、離しな」
さよ子の目は、けんじを睨み付け、凄んでいた。
喋り方も今までと違っていた。
さよ子は、けんじの手を振り払った。
けんじは、包丁を床に落とした。
さよ子は、そくざに、包丁を
床と棚の隙間に、足で蹴り飛ばした。
いつも大人しい、さよ子とは思えない敏捷さだった。
一歩間違えたら、自分の足が怪我をする所だった。
絵を描く前は、スポーツ少女だったさよ子は
自分の運動神経に自信があったし
けんじの前では、多少、女を演出していたが
口数が少ないだけで、元来、さよ子は気性は荒かった。
主将を勤めていた時期もあったさよ子は
いざと言う時の、度胸も鍛えられていたのだった。
けんじは、床にひれ伏して泣いた。
「謝るから、許してくれ。お願いだから、別れないで」
けんじは、いつものように土下座していた。
「もう、心底、嫌になったんだよ」
さよ子は、吐いて捨てるように言った。
さよ子は、今までに、人に言った事の無い
荒々しい自分に、びっくりしながらも
そのまま、言い切った。
「出て行きな!」
すると、けんじは、大人しく立ち上がり
目に涙いっぱいためながら
背中を丸めて、ドアの前で言った。
「酷いよ、俺、お前と本気で結婚したかったのに」
ドアを出る時に、更に、けんじはダメ押しをした。
「ねぇ?友達としてでもいいから、俺と会ってくれない?」
「友達にはなれない
恋人にもなれない、結婚も、したくない」
さよ子は、はっきりと言った。
カイブツ君は、意外にも
すっきりした顔をして出ていった。
次の日、そして、その次の日も
カイブツ君は、さよ子のアパートの前の砂利道を
夜中にさくさくと足音を立てて近寄った。
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