第1章

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「はい、どうぞ。」 主人が、私の目の前に淹れたてのコーヒーを置く。 「ありがとう。」 私は笑顔で、マグカップを両手で包み込む。 退院して1週間。 私は、あの日、台所で調理中に、脳梗塞で倒れたらしい。 後遺症でそれ以前の記憶が曖昧になっているのだ。 それでも、幸い、主人の懸命の介護も実り、私は徐々にリハビリを重ね なんとか日常生活に支障の無い程度には復活したのだ。 でも、どうしても、あの脳梗塞になる以前の記憶がなくなっている。 最近特に、何か大切なものを忘れているような、強迫観念にかられることが多くなったのだ。 どうしても、思い出せない。 主人はとても優しい人で、私のすべてを包み込んでくれる人。 私は幸せだった。 退院して、すぐに、私は少し違和感を感じた。 生活のシーンのところどころで。 例えば、水道の蛇口から水を出す場合。 私は無意識に、流しの前に立ち、水道のレバーを上に向けて跳ね上げた。 ところが水道はびくともせず、もしやと思い、水道のレバーを下に下げたのだ。 すると水が勢い良く出た。私がこのことを主人に告げると 「君がもし、手が不自由になった時のことを考えると、押し上げるより、押し下げるほうが便利だと思って、水道の蛇口を変えておいたんだ。」 と言った。こんな細かいところまで気が利く主人に感謝しつつも、ちょっとした違和感をぬぐえなかったのだ。 それから、トイレだと思って入った場所が寝室だったり。 私の中で、そういう小さな違和感が日々の生活で積み重なる。 その度に私は主人に相談するのだが、主人にもわからないらしく 「きっと君の中で、情報が錯綜していて、たぶん記憶の整理ができていないんじゃないかな。」 と言い、今度病院で相談してみようという話になった。 もっと根本的な話だ。 私の中である疑念が小さく渦巻いていた。 ここは、私達の住んでいた家ではないのではないか。 そう考えればすべての合点が行くのだ。
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