泣いてない? 泣いてない。

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「な、で」 何で? と聞きたいのに、及川の意外に逞しい胸に当たって私の言葉は消えて行った。 「ああ、かわいいなあ。俺の和佳奈は」 左手でがっちりホールドしたまま、及川の右手があちこち撫でまわしていく。 髪を撫で、肩甲骨をなぞるように背中を撫で、ウエストのラインを撫で。 その手がお尻にたどり着いて、さすがに私もハッとした。 「及川!?」 ドンと突き飛ばして、その顔を見上げた。 誰? これ。 私が部活を引退した後も、毎日教室に来てはバカにした口ぶりで絡んで来ていた及川とは別人みたい。 音痴のくせして必死に音取りをしていた部活中の顔とも違う。 蕩けそうに甘い微笑みを浮かべているけど、何となく危険な感じ。 獲物を狙っているような目。 「俺の下の名前、知ってるでしょ? 冬真って呼んで下さい」 呼ばないし!! なんか危険。なんか危険。猫なで声の及川なんて怪しすぎる。 「私、もう行く」 焦ってバッグを持った手を及川に掴まれた。 「逃がすかよ」 きゃあ! 食べられちゃう。食べられちゃう。 「打ち上げが」 「パスしなさい。ほら、連絡して」 なぜ。 私はこいつの言いなりになって、友達にメッセージを送っているのでしょうか。 「送った……けど」 ポロンと返事が来たと思ったら、スマホを及川に取り上げられた。 「『朔太郎』って男だよな? なんで男に連絡するわけ?」 草食系男子の代表みたいな及川がドスを利かせたところなんて初めて見た。 「か、幹事だから?」 「ふーん。『カナが来ないと盛り上がらないよ。デュエットしよ?』だって。いいですね。打ち上げってカラオケだったんですか」 「あ、カラオケになったんだ。焼肉屋かどっちかって言ってたんだけどな。焼肉屋だったら絶対行くんだけど、カラオケならいいや」 「なんで?」 「なんかコーラス部ってだけで歌うまいと思われて、難しい曲歌わされるから。及川もそうじゃない?」 「ローレライは歌声で男を惑わすんですよね。ったく。金輪際、カラオケは禁止」 そう言い放つと、何やら私のスマホで文字を打ち始めた。
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