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「私、どこにも行きません」
彼女はにっこり笑って首を振り、一歩こちらに踏み出した。
「私、すごく幸せです。ここに帰ってくることが。ここで帰りを待つことが」
その言葉は、幻聴かと思い固まるほど、この数時間を吹き飛ばす威力だった。
僕に伸ばされた手を見下ろし、それからもう一度彼女の顔に視線を戻した時、僕は彼女の究極の優しさと強さを悟った。
よく見ると、彼女の頬はただれたように涙の跡が残っていて、この数時間がどんなものだったのかを語っていた。
なのに彼女は何もなかったふりをして、腫れた瞼で微笑んでいる。
「あの、まだ引っ越しもしてないのに図々しいんですけど」
僕に向けられたあまりのいじらしさに硬直していた身体が勝手に飛び出して、気づけば彼女を力一杯抱き締めていた。
甘い香りの髪に顔を埋め、溺れた人間が息を吹き返すように、彼女という酸素を求めて深々と息をする。
長い長い午後がようやく終わりを迎え、僕たち二人をオレンジ色に染めていた。
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