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早見杏里side
会社に着くと、いつもは九時にしか来ないなっちゃんがもう仕事を始めていた。
昨日彼が帰った後にかかってきた電話は和田くんが担当した営業先からで、納めた資料の中に不備があるという指摘だった。
和田くんのミスは当然、教育係のなっちゃんの責任になる。資料の訂正と先方への謝罪はもちろん、先方の取引先へのフォローが必要だ。様々な会社や工場の仲介をするうちの会社だからこそ、関連する組織全てへの迅速かつ適切な連絡と処理が最も重要で、対応力次第では契約を切られかねない。
肝心の和田くんは昨日のうちにできるだけの訂正を入れていたけれど、机に突っ伏している様子を見るからにもう限界なのだろう。
「おはよう。これ差し入れ」
道中コンビニで買ってきた栄養ドリンクと軽食をデスクの端に並べる。和田くんのデスクにも同じものを置くけれど、ピクリともしない。寝ているのかな。
「ありがとー」
なっちゃんは柔らかく微笑むと、キーボードから手を離し栄養ドリンクに口をつけた。
「大丈夫そう?」
「まーね。あとは挨拶回りかな」
そいつが起きればいいんだけど、と呟いたなっちゃんの声には普段含まれない皮肉が込められていた。
私はなっちゃんの荒れていた時期を知っているから驚かないけれど、もし他の人が聞いたら固まってしまうかもしれない。それくらい、なっちゃんは負の感情を押し隠して生活している。
訂正資料らしきものが印刷される音がオフィスの端の方から響いてきた。
「これで完了」
なっちゃんは席を立って移動すると、印刷された紙をパラパラめくりながらまた自席に戻り、最終確認を終えた。異常な速さの確認だけれどもきっちり目を通していることを、私は知っている。速読、とかいうレベルではないと思う。桁違いの速さ。
「おはよーさん」
のんびりとした声とともに入ってきたのは安藤部長。三十代半ばくらいの典型的なサラリーマン然とした外見だけれど、発想が柔軟で人に寛容だから、密かに慕う人が多い。
私となっちゃんも挨拶を返すけれど、部長は和田くんが気になるのだろう。凝視している。
「ぶちょー、いいですかー?」
「お?おう。どうした」
なっちゃんはいつものふわふわした空気、よりは少し堅めの空気で部長に状況を説明し、ちゃっかり直帰する許可まで取っていた。今日の早朝か、もしかすると昨日の夜からここに居たのかもしれないけど、今日の分の仕事がもう終わってるのは凄すぎじゃありませんか?
なっちゃんは手早く必要な書類をまとめて出かける準備を整え、すっかり眠っている元凶を優しく起こして出ていった。
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