1.始点

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1.始点

綾瀬流生side  おかしい。どこかで間違えている。  ページをせわしなくめくり、始めからもう一度検討する。ここまでは合っている。なら、どこでずれた?もう少しで見つかるはずなんだ―― 「――ねぇ流くん、聞いてる?」  突然耳に入ってきた音に驚いて顔を上げると、優しく微笑む彼女がいた。カールのかかった茶色の髪を指ですっと耳にかける仕草には、微かな困惑がにじんでいる。  そうだった。今はデート中だった。  数式のびっしり並んだノートを閉じて脇へとずらす。惜しいな。あと少しであの理論は完成したのに。もう少し没頭していたかった。なんて、そんなわがままが通用するはずないか。これでも充分、待ってくれていた方だろう。 「ごめん。何の話だっけ?」  数学に夢中で忘れた。なんなら、聞いていなかった。 「十日後がね、半年記念日でしょ。だからデートしようって」  拗ねたように唇を尖らせながら、嬉しそうに笑う彼女を見て思い出す。今日は一月十三日だから、付き合い始めた七月二十三日からはあと十日で半年になる。別に付き合い始めた日なんて覚える気はないのだが、一ヶ月ごとに記念日なんて言われれば嫌でも覚えてしまった。 「いいけど、どうしたんだ改まって」  爛々と輝く瞳を向けられる。嫌な予感。 「今回は、私が喜びそうなデートを流くんが考えてほしいなって」  勘弁してくれ、とは言えずに承諾してしまう。数学をしたい、という俺のわがままを聞いてもらっている後ろめたさには勝てなかった。 ***  凍えるような寒さで目を覚ました。全身が冷えきって強張っている。暖房をつけ忘れていたのに気づいて、かじかむ指で電源ボタンを押す。やがて出てきた心地よい温風に、ようやく息をつく。  寝室を出てリビングを見るが、人の気配はない。彼女はもう帰ったのだろう。帰るときに声くらいかけてくれてもいいのに、と思うが、かけられればそれも煩わしく思うのだろう。  寝室に戻り床に落ちている掛け布団を引っ張り上げて、さっきまで寝ていたベッドに再び潜り込む。布団にくるまって腕だけを出して携帯を探す。  彼女には見せられない姿だ。がさつで、怠惰。俺に近づいてくる女子はほとんどが「俺は優しく繊細」「紳士」「女心のわかる王子様」だという幻想を見ているから、こういうことをして今まで何人にもフラれた。失望され慣れている自分にはもはや呆れさえも起こらない。むしろ、外見だけで俺に期待するのはやめてくれとすら思っている。  探り当てた感触。布団の中で画面を点け、発歴から電話をかける。三コールもしないうちに相手は出た。 『綾瀬?どうしたのー?』  間延びした明るい声に、相変わらずだな、と思う。  相変わらず子供みたいに振る舞って周りの人間を騙しているんだろうな、と思う。 「ちょっと聞きたいことがあってさ」 『なにー?そっち行こうかー?家にいるんでしょ』  大した用事ではないけれど、こいつと話すなら人目がないほうが良い。 「あー、うん。頼む」  鍵は開いてるから、とつけ加えて電話を切った。奴が来たのは、約三十分後だった。 「話って何?」  布団から出る。ようやく暖房の効いた古いアパートの部屋はぬるく、服を羽織ればまあ過ごせる。そして、ベッドの側まで椅子を運んできた男をぼんやりと眺める。  目を引くのは髪。金髪、とは少し違う柔らかい色。白や銀味を帯びた檸檬色。瞳は黒いし顔立ちも日本人だから染めているのだろうとサークルでは言われているが、本人曰く地毛らしい。理由は聞いていない。  椅子に座ると目線はほぼ同じ高さになるが、身長には少し差がある。ただ普段の身のこなしが幼い印象を強く与え過ぎて、実際よりも小さく見えるのは不思議だ。  そんな大した話じゃないけど、と前置きをして、彼女に言われたことを伝える。 「へぇー。梨沙ちゃんそんなこと言ったの」  人前では小学生みたな言葉遣いで大きな身振り手振りを使って話す男は、俺の前では至極普通に話す。  永礼透真。うちの大学一の天才は、俺にとっては一番気楽に話せる相手だ。永礼にとっても、たぶん俺は気楽な相手だろう。 「そうなんだよ。今までは向こうの希望に合わせてたから、考えろって言われてもわからないんだよな」  半年間ももったのはこれが初めてだし、何かするべきだという思いもある。ただ、「何をすれば喜ぶだろう?」そう考えて初めて、俺は梨沙のことをよく知らないことに気がついた。  だからといって永礼に相談するのもおかしいかもしれないが。  ふふふ、と静かに笑う声がして目を向けると、いつもと同じにこやかな顔をした永礼と目が合った。 「それはさ、本当に喜ばせてほしいんじゃなくて、自分の為に綾瀬が時間をかけて考えてくれたっていう事実が欲しいんじゃないかな」  僕に聞いたってだめだよ、と言われる。  それはわかってるけど。    ほんとにわからないんだ。 ***
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