2.命題(表)

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2.命題(表)

綾瀬流生side 「――っ」  勢い良く飛び起きる。全身の汗で服と髪が肌に貼りついて気持ち悪い。冷たいシャワーを浴びながら、さっきの夢を思い出す。 「私があなたを一番に思っても、あなたの一番は私じゃない」 「数学はまだいいの。でも、あなたはあの人を優先する」 「あの人はあなたを友達だなんて思ってない」 「このまま一緒にいても、いつかあなたはあの人を選ぶ」 「私を捨てて、あの人のところへ行ってしまう」  悲壮感たっぷりの叫び声は、数年前に梨沙にフラれたときのもの。あいつとは友達だと何度言っても聞く耳をもたず、一方的に関係を断たれた。以来、定期的にこの夢を見るようになった。別れたショックではなく、その時梨沙に言われた言葉が頭にずっと残っているからこんな夢を見るのだろう。 「あの人は、永礼くんは、あなたが好きなの」  ガンッ、と風呂場の壁を思い切り拳で叩く。鈍い痛みで我に返った。夕飯の準備をしないと。  ジャージとTシャツを着てキッチンへ向かう。もう八時だ。パスタでいいか。適当に具材を切っていると、がちゃりと玄関のドアが開く音がした。 「ただいまー」  底抜けにユルい声とともに黄色い頭が入ってくる。 「おかえり。もうすぐできるからちょっと待って」  麺を茹で上げていると、永礼がスーツのネクタイを緩めながら寄ってきた。ふわりと漂う女物の香水の匂い。 「ミートソースだー」  にっこり笑う永礼を手で押しやる。 「先に風呂はいってこいよ」  はーい、と片手を挙げながら風呂場に向かう永礼は、会社員はおろか、俺と同い年にも見えない。ため息をついてキッチンの台にもたれかかった。  俺の住んでいたアパートの改修にかこつけて永礼と共同で部屋を借りたのは、大学の三年に進級したときのこと。  珍しくサークルに顔を出し、家がなくなると話したところ、他のメンバーが「永礼と一緒に暮らせばいい」と言い始めたのだ。  俺と永礼は大学内ではかなりの時間行動を共にしていたから仲が良いのは周知のことだったが、その冗談半分の提案を、あいつは思いがけず了承したのだった。  ――他人に家を教えることすら極端に嫌がるやつだったのに。ましてや家に上げるなんてもっての外だったのに。  梨沙の言葉が引っかかっていた俺は、流されるように共同生活を始めた。  ルールは二つ。他人を家に上げないことと、個人の部屋には入らないこと。玄関からキッチン、リビングが並び、左に俺、右に永礼の部屋がある。  あいつは元々家に人を招かないから、他人を家に上げない、というのは俺が彼女を連れ込むのを禁止しているのだが、梨沙と別れて以来誰とも付き合う気になれず、彼女はいない。ただフラれた理由が理由なので、永礼に別れたことは伝えていない。  シャワーの音が聞こえてきて、さっきの香水を思い出す。  出会って一年くらい経ったころ、空き教室であいつと女が一緒にいるのを見たことがある。いや、一緒にいるというか、そういうことをしているのを見たのだ。  常に笑みを絶やさないあいつが、「無表情」で「女を抱いている」のを見た。  俺は二人が付き合っているのだと思っていたから、後で聞いたあいつの言葉 ――君は変なとこ純粋だね、と笑い、付き合ってないし相手の名前すら知らないとあっさり告げる言葉――には衝撃を受けた。  俺はそういう場面に出くわすことが多くもう慣れているが、社会人になっても続けていて大丈夫なのだろうか。  梨沙、と心の中で呼びかける。  ――どこをどう考えたら、あいつは俺を好きなんだ。  風呂から上がりスウェットに着替えた永礼とともに食卓を囲む。手を合わせていただきますと挨拶し、一口食べて美味しいと感想を言われる。不味くなるような材料は入れないから当たり前だし、失敗するような難しい料理でもないから、満面の笑みを向けられても困る。 「そういえば、研究はどう?」  フォークとスプーンを器用に使う姿を感心しながら眺めていた俺は、突然話を振られて反応が遅れる。 「ん?――うん、まずまずかな」  当たり障りのない言葉に、永礼はそう、とだけ答えた。折角話題を出してくれたのに広げずに返してしまったが、これはめちゃくちゃ綺麗な所作で食事をとる永礼のせいだ。と言い訳をする。本当は梨沙の言葉と永礼の行動のあまりの一致のしなさに気を取られていたのだが、こいつの食事動作が綺麗なのも事実だ。 「そうだ。論文のここのところってさ――」  近くに置いていた紙の塊を永礼に見せる。ヨーロッパから取り寄せた最新の研究報告書がドイツ語で、途方にくれて寝たのだった。英語なら読めるが、ドイツ語は辞書片手に見てもなかなか辛かった。大学では第二選択語というものもあったが、数学以外に興味のない俺は中国語を選んでいた。文法は英語に似ているし、漢字で大体の意味がわかるから、比較的単位を楽に取れる言語として有名だった。身にはついていない。 「ああ、これはね――」  こいつは語学堪能で、大体の言語が話せる。少なくとも、俺が「これ何」と解読を要求するような、論文に使われる言語は。  にっこりと笑う永礼の隣に移動して、淀みない説明に耳を傾けた。 ***
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