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【第一章】
「傘を忘れちゃったな」
顔に叩きつける暴風雨の中、時折ハンチング帽を片手で押さえつつ自転車を走らせていたラルフは、思い出したようにそう呟いた。
祖父危篤の電報を受け取り、とる物もとりあえず汽車に飛び乗ったのが三時間前。一時間前に汽車を降り、駅前で借りた自転車に飛び乗って人気のない田園地帯を横切る間ずっと、彼は冷たい雨も風もほとんど感じないでいた。
遠雷のように頭の中を打っていたのは、ただ祖父のことばかりだ。
祖父のクラーク・ハリソンは、著名な旅行家であり、寡作ながら物語作家でもあった。少なくとも、ラルフは周りの人からそう聞いている。
祖父に関してのラルフの思い出は、八歳になる前の幼少期に限られていた。体の弱い弟の世話で両親が忙殺されていた頃、ラルフを預かって面倒を見てくれたのが祖父だった。両親がほとんど寝たきりの弟を連れてマヨルカ島や湖水地方に静養に行く時、ラルフは決まって田舎にある祖父の白樺色の屋敷に預けられ、家政婦のオハラ夫人をばあや代わりにして一夏を過ごしたものだ。
祖父はがっしりと骨組みのたくましい、矍鑠とした老人で、目はフクロウのようによく光っていた。身だしなみはいつも粋で、自分では埃一つつけないように注意を払っていたが、幼い孫と遊ぶ時はどれだけ泥んこになっても気にしなかった。ラルフと遊ぶ時、彼はいつも子供に帰っていた。
目を瞑ると、今でもありありと祖父の書斎を思い出す。雨の日や寒い日には、二人はいつも書斎にこもり、パチパチと薪のはぜる暖炉の傍で祖父のしてくれる物語を聞いたものだ。
暖炉の上にはダイヤモンドをちりばめた小箱、マホガニーの机の上には黄金色の万年筆、壁には色とりどりに塗られた南洋の奇怪な仮面、ベッドにはどっしりしたベルベットの天蓋、本棚には埃をかぶった沢山の蔵書、床には祖父が仕留めたというトラの毛皮の敷物。『海賊のアジト』と名づけたその書斎で、ラルフはトラの毛皮にくるまれながら、日がな一日祖父の物語を聞いた。
祖父がしてくれるのは、彼がこしらえた『聖域』という名の失われた王国についての物語だ。彼はことにそれを体験記のように語るのが好きだった。
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