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 その人の自己に対する慈愛の念が、ただ一点に表れているような気がするからだ。貴方は、わたしの心情を察し、そんな台詞を言ったのだろうか。そう思うと、胸の奥が締め付けられるようで苦しい。  座席につくと、主人は早速腕を組んで瞼を閉じた。主人の隣に腰を落とした貴方は、オペラが始まる舞台へ目を向けて、嬉しそうに微笑んだ。  舞台では、リヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』というオペラが演じられていた。これは、年の離れた陸軍元師と結婚した夫人が、年若にもかかわらず年齢の衰えを気にし始め、青年貴族との情事を重ねるという愛の話だ。次第に夫人は、青年貴族が自分の元を去っていく予感を抱きはじめる。だが、夫人はそれを粛然として受け入れ、二人は別れる。  観劇の最中わたしは、すっかり眠ってしまった主人の隣に座る貴方の視線を右頬に感じた。貴方の眼差しで、身につけている全てのものを剥ぎ取られるような恥ずかしさを感じた。それと同時に、貴方のわたしに対する秘めた思いが嬉しくて素直に歓迎した。  しかし、わたしは『ばらの騎士』に出てくる夫人のような広い心で、貴方の去っていく後ろ姿を見届けることはできないだろう。  さもしいわたしを許してほしい。  もう、愛してしまったから。
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