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 かつては火山だったかもしれない凹凸が、遠い昔に見たかもしれない峰々の姿と重なりそうである。はっきりとは思い出せない。けれど、もう思い出せなくてもそれでいい。  ただただ綺麗だと思った。  移動する光源、魚たちの身体の化学反応を頼りに、輪郭を目でなぞる。  波打つ海底のずっと向こうの果てない世界に思いを馳せる。  広い。この果てしなく広い世界で、この子たちは自分を見つけてくれたのだ。見つけて、触れてくれた。情を向けてくれた。  故郷の土を二度と踏むことが叶わなくても、腐ることが叶わなくても、海の藻屑となることさえ叶わなくても。自分は確かに五十年前よりもずっと、たくさんの命と、大いなる流れと繋がっている。そう確信した。  気が付けば、なけなしの水分が涙管から搾り出されていた。 「ありがとう。長老様、ありがとう」  少女は頬を濡らす涙を指で拭った。温かい。  この瞬間、間違いなく彼女は生きていた。  そしてそれだけで満足していいんだよと誰かに言われた気がした。  一時だけでも感動して生きられたことに、感謝した。 「いいんだ。生命の流れに戻れない君の魂へのせめてもの餞(はなむけ)だよ」  長老様の触手がそっと水晶を撫でた。  クラゲが魂の概念を理解していることに、もはや彼女は何の疑問も抱かない。 「うん。わたし、ほんとうに、幸せだよ」 「安心していい。肉体の方は、ぼくらがここでいつまでも見守っているよ」  答える代わりに少女は微笑んだ。祝福されて送り出される者の微笑みだった。  数分前から既に酸素不足に陥っているはずなのに、圧倒的な幸福が苦しみを上塗りしてそれを忘れさせていた。 「さあ、お休み。この深海(アビス)が君の揺りかごだ」  長老様の穏やかな声の振動と深海の闇に包まれ、少女の胸板は最期の息を吐き出した。
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