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と、そのようにアンコウが言葉を発したように感じられた。本当にそれが声であったのかは疑わしい。言葉は屈折して空間の壁を伝い、肌を通して脳に届いたように聴こえたのだ。魚は特別な動きとして口を開いたわけでもなく、普通にエラ呼吸を続けていたように見える。
「やあ、まさか君の意識が覚醒する日が来るとはね」
数分としない内に呼ばれた相手が姿を現した。やはり発光する生物であり、小柄だった。
柔らかそうな丸い身体を中心に据えて、糸のような触手が無数に伸びる。
「ここは深海だよ」
それは緩やかに水流に乗って来た。触手を彼女の透明な「箱」に巻きつけている。
「しんかい」
少女は言葉を反芻した。
「君は、自分のことを憶えているかい? ヒトの個体は、名前が与えられるはず」
「なまえ?」
「憶えてないのかい?」
少女は窮屈な空間の中で頭を横に振った。
名前も歳も、育った場所や知り合いの顔さえ、きれいさっぱり思い出せない。
「でもね、憶えていることもあるの」
彼女はたどたどしく説明した。知識は持っているのに、己が何者であるのかのエピソード記憶が欠片も残っていないのだ。長老と呼ばれた彼が、クラゲという種の生き物であることは知っていた。魚やランタンフィッシュやアンコウなどの、物の識別名は引き出せるのだ。自分が人間で、まだ幼い雌であることもなんとなくわかる。
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