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妻の桜は、朝食後すぐに食器を下げるのが常だ。彼女が当番の日は必ずそうだった。
しかし今朝に限っては、テーブルの上に汚れたコップや皿が置かれたままになっている。
目玉焼きの黄身とベーコンの油が混ざり合い、トーストが乗っていた皿の周辺はパンかすが散らばっている。
いつもなら、それらはあっという間に片付けられ、クロスの上は塵ひとつない状態になるはずだった。
妻の異変に気づいた僕が、さりげなく様子をうかがったとき、唐突に彼女は言った。
「私、今日家を出るから、そのつもりでいて」
僕は歯ブラシをくわえたまま、コップに水を入れているところだった。うっかりブラシ部分を噛んでしまい、歯茎をおさえながら、妻のほうへ躰をむける。
「そっか、今日……。昨日は一日、何の素振りも見せなかったのに……突然だな」
そう言いながらも同時に、僕は何を今さら、と思っていた。
僕たちは法律上夫婦だが、この数年ふたりの間にそれらしい会話はなかった。寝室が別なのも、すっかり慣れてしまっている。
桜はダイニングテーブルに座り、目を伏せ一点を見つめている。この数年で、くっきり浮かぶようになった眉間のしわに影が差し、よりいっそう苦痛な表情に見える。
僕といるときの桜は、いつもこんな表情だ。僕は自分の妻を、笑顔にできない夫と言える。
桜は、「毎日考えてた……」と呟いた。
「私たちに必要なのは、時間と距離だと思うの。ねえ、それはあなたが一番よくわかっているんじゃない?」
ふいに真っ直ぐ視線をむけられ、僕は逃げるように目をそらす。この一年、妻はときどきこんな風に、僕に静かな怒りをぶつけていた。
「とりあえず、身の回りの物だけまとめて持って行くわ」
桜は深く息を吸ったあと、淡々と告げてくる。
「俺にできることがあったら……」
言ってから、自分はなんて間抜けなのかと思う。
「大丈夫よ」
桜は、笑うことに失敗したようだった。
僕は何も言えなくて、いつもと同じ朝の支度にかかるしかなかった。頭は今しがたの会話に囚われているのに、気味が悪いほど躰が勝手に動いていく。
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