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桜は、出て行くための支度をせずに、まだ静かに座っている。彼女なりに、僕に気をつかっているのかもしれない。
「じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい。いつになるかわからないけど、話し合いましょう」
「うん……そうだね、そうしよう」
妻の言葉は、ずっしりと重かった。悲壮感すべてが含まれている気がした。
「鍵は持ってるわよね」
「うん、大丈夫」
ごく普通の夫婦の会話に聞こえるのが皮肉だ。
いろいろあったけれど、こうして桜に見送られるのも最後なのだと、そんな気持ちが、僕を饒舌にした。
「だからめずらしく有休とってたんだね。……あのさ、やっぱり比奈も連れて行くんだろ」
言葉にしてから、しまった、と思った。
妻はすでに泣きそうな顔になっている。またやってしまった。
「ごめん、あたりまえだよね、比奈はまだ1年生なんだし」
僕たちの間で、大切な一人娘の比奈が、夫婦の揉め事の一番の原因になっている。
嫌な表現だが、爆弾だ。どうしてこうなってしまったのか。気づけば、妻のあご先まで涙がつたっている。
「やめてよ透さん……言わないで、お願いだから」
よりによってこんな朝に、また泣かせてしまうなんて。僕は最後まで情けない夫だ。
この数年、桜は比奈のことで頻繁に涙を流すようになった。以前はよく笑う、明るい女だったのに。
それもこれも、原因は僕だ。
「ごめん、桜」
嗚咽をこらえる妻の肩に手を置こうとして、それは空をさまよった。
この肩には、もう触れるべきではないと思ったからだ。同時に、最後に妻の肌に触れたのはいつだったか、思い出せずにいる。
職場では、いつもと変わり映えのない一日が、僕を待っていた。
今朝の出来事が、自分の妄想なんじゃないかとさえ思う。僕はいつも通りに、決められた仕事をひたすらこなした。
「お先に失礼しまーす」
女子社員の声に、はっとして時計を見ると6時を回っていた。
水曜日は、早く退勤するよう上から言われているから、周囲の人間もつぎつぎドアへ流れていく。
――今日は課長が休みだったから平和だったな。
真っすぐ帰宅しようかと鞄を持ちあげたとき、今朝の、妻とのやり取りが頭に浮かぶ。
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