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「久我くんお疲れ様。君も早く上がりなさいよ」
有給休暇の課長に代わり、係長が声をかけてくる。
僕は、仕事を持つありがたさを改めて知った。とにかくここにいる間は、余計なことを考えずにすむからだ。
最寄り駅に着き、ゆっくり改札を抜ける。このまま歩けば十分で自宅だ。
サラリーマン風の男達や学生が、つぎつぎ早足で改札を通り過ぎ、僕を追い越していく。
皆、待っている家族の元へ早く帰りたいのだろう。どんっと背中を押され、舌打ちが聞こえる。僕は急いで端へ躰を寄せた。
僕にはもう、家庭と呼べる場所はない。しかし悲しいかな、どんな状況でも腹は減るものだ。
一人分の食事を作る気には到底なれず、僕は自宅とは反対方向へ歩き出した。商店街を通り過ぎてしばらくすると、見覚えのない通りに出る。
結婚と同時に、この街に越してきて8年。休日に出歩くことの少ない僕には、知らない場所ばかりだ。
なんとなく路地を曲がると、『洋食・れむ』という看板が目についた。ログハウス風の可愛らしい外観だ。
男一人では入りにくい雰囲気だが、空腹はピークに達していた。ドアベルを鳴らし中へ入ると、深い木の香りや、デミグラスソースの美味そうな匂いが僕を包み込んだ。
店内はそう広くない。五人掛けのカウンター席のほかに、四人掛けのテーブル席が八つある。平日だからなのか、客は二組だけ。
「いらっしゃいませ」
「あ、はい」
「店内禁煙になっておりますが、よろしいでしょうか」
うなずくと、案内されたのは、窓際だった。
周囲は民家も建ち並ぶ密集した場所だが、窓から中庭が見える。敷き詰められたレンガや木製のベンチ、洒落た街灯を囲む樹木があり、なかなか眺めがいい。
良い席だ。
全席禁煙は、仕事帰りのサラリーマンに歓迎されないだろうけれど、僕は気に入った。あとは味だ。
メニューをながめていると、コツコツと軽い足音が近づく。
「ご注文はお決まりですか」
「ディナーセットのCを、ドリンク付きで」
「かしこまりました。少しお待ちくださいませ」
暗い照明のせいで、気づくのが遅れた。ウエイトレスの彼女は、高校生くらいの若い子だった。
――平日のこの時間帯に働くなんて、えらいなあ…。まあ、コンビニなんかだと深夜帯もあるけど。
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