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何の気なしに店を振り返ると、すでに入り口の照明は落とされ、洋風のすりガラスの奥がじんわり光っていた。
べつに意図があるわけじゃなかった。
僕は静かにその窓に近づき、目を凝らしして中の様子をうかがった。そうだ、確かに話し声が聞えたからだ。
そしてそれは、徐々に僕のいる入口へ近づいてくる。ふたり分の、足音とともに。
「泊まっていってもいいでしょ。ねえってばぁ、お願い」
「そんな顔してもダメだぞ。母親が心配する」
「もう、頭かたいんだからあー。でも、そんなとこも大好きだけど」
「なに言ってんだ、ばーか」
鮮明に耳に飛び込んできた甘ったるい会話に、気持ちが完全に持っていかれる。
ウエイトレスの彼女だ、と直感した。
なら、相手はどんなやつだ。
低くハスキーな声は、おそらく37歳の自分と同世代の、大人の男のものだ。
大切な相手をさとすようでいて、耳に毒なほど優しい口調。
彼女の甘えた声色は、相手の男に夢中なのだと如実に表している。
どんな男なのか、僕はこの目で確かめたくなった。周囲をうかがいながら、入口から死角になる場所へ移動する。
いったい自分は何をやっているのだと己に呆れながら、しかし僕は、久しぶりに興奮しているのを感じた。
ようやく扉が開いて、二つの影がもつれるように出てきた。
ウエイトレスの彼女に続いて、その躰を支えるようにしながら、長身の男がドアに向けてカチャリと音を立てる。施錠だろう。
その間も、ふたりの手は繋がれたまま、彼女ははしゃぐように男にまとわりついている。
クスクスと耳をくすぐるような軽やかで小さな笑い声と、時折かぶさる男の低い声。
男の腰に巻かれた白いエプロンには、油汚れのような黒ずんだ汚れが付着している。
――シェフなのか……。
それこそ、年齢的には親子のような二人だ。しかし親密な空気は、親兄弟とはあきらかに違う。
ふたりの影が重なり、ひとつの生き物のようにうごめく。
足を縫い止められたように、しばらくそこから動けなかった。
僕は、初めて店を訪れた客の分際で、男に強烈な嫉妬を感じていた。
自宅マンションに灯りはなく、そこはまるで黒い空間を閉じ込めたコンクリートの箱だった。
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