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その日、彼はいつものように勤め先で働いていた。
彼は印刷工場で週に五日間、朝の九時から夕方の五時まで働いている。休憩時間以外は、ずっと立ったままの作業だ。初めの頃は、体の節々が痛くてたまらなかった。さすがに、入ってから二年が経過した今では慣れてきている。それでも楽な作業ではないが。
しかし今の彼には、この仕事しか出来ることがなかった。
五時になり、夜勤の者が工場の中に入って来る。交代の時間だ。彼は挨拶し、そして出て行こうとした。
しかし――
「小林くん……悪いんだけどさ、残業してもらえない?」
班長の卯月が彼に近づき、すまなそうな様子で声をかけてきた。
「え? 残業ですか……」
彼は困惑した表情で言い淀んだ。ついこの前も残業をさせられている。他の者ではなく、なぜ彼を指名するのか……。
もっとも、その理由は考えるまでもないが。
「頼むよ、お前しかいないんだ。みんな予定が入っちゃって……だから頼むよ。いいだろ?」
卯月はすまなそうな表情で懇願する。彼には、断るという選択肢は残されていなかった。
彼の名は小林綾人。見た目はごく平凡な十七歳の少年である。見た目と同じく、中身も平凡だ。特筆すべき何の能力もない。強いて彼の特徴を挙げるなら……他人の頼みを断ることができない、という点だろうか。
もっとも、その特徴は……綾人の人生において、常に厄介事を運んできただけだった。人からの頼みを断れなかったがゆえに得をしたことなど、ただの一度もない。
そう、綾人の周りにいた者は、綾人に一方的に何かを押し付けていくだけだった。綾人が断ることのできないタイプだと知ると、確実に面倒なことを頼まれたのだ。
さらに言うと、その面倒なことを苦労して片付けた綾人に対し……労力に見合うだけの何かを与えた者はほとんど居ない。大抵の人間は貸した事は覚えているが、借りた事は忘れるものである……あるいは、借りた物を過小評価する。ほとんどの者は綾人に対し、「ありがとう」の一言で借りを返した気になっていたのだ。
そう、綾人のようなタイプの人間は、現代の日本社会において、ただ損をするだけだった。
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