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怨讐鏡
私は復讐したい。
不倫相手の男──妻子持つ歳上の上司にである。
彼が私の全てだった。狂おしいほど愛していた。
彼の理想の女になろうと必死だった。それでも満足しないのなら身を売ることも厭わない覚悟で、身も心も魂さえも差しだすほど尽くし抜いた。
母子家庭に育った私は父性に餓えていた。
そんな私が映像制作会社に入ると、その上司が理想とする男性像の彼だった。
運命だと確信した。妻子がいる男でも構わなかった。
私の方からアプローチすると、時を置かずに深い関係になった。
「妻とはもう終わってる」「きみと一緒になりたい」
彼が囁く心の襞を撫でる言葉に酔いしれた。
それなのに──彼は私を裏切った。
私が誕生日祝いに買ってあげたネクタイを締めて、妻と共に子供の授業参観に行ったのだ。
私という者がありながら、家庭で尽くす彼が許せなかった。
妻と子供のために笑う彼が、心の底から怨めしかった。
ホテルでワイングラスを投げつけると、ネクタイに真っ赤なシミがひろがった。
それに狼狽しながらも、幾度も濡れたタオルで拭っていた彼の姿が眼に焼きついている。
心が張り裂けそうだった。あのときほど彼が愛しく想えたことはない。
「きみが悪いんだ……僕達もう別れよう」
その言葉だけを残して、彼はいとも容易く私を棄てた。
なにもかも引き裂いてやりたかった。
──畜生っ、馬鹿にしやがって、怨んでやる、呪ってやる、今に見ていろ、憶えていろっ!!
私は様々な復讐を考えた。昼も夜もその妄執に溺れた。それだけが私の生き甲斐だった。
やがて悟った。詮無いことだと。自分の馬鹿さ加減に辟易した。
そして違う復讐を思いついた──それが果たされた光景を夢想して、密やかな愉悦に浸った。
「野間、後片付けしてくれ撤収だ。僕はホテル側と相談があるから」
彼──兼田が冷めた声で指示した。
私は返事をせずに、ただ黙ってうなずく。
カメラマンも私達の関係を知っているので、通り一遍の眼でしか見ていなかった。
兼田とカメラマンが去ったあと、私だけが薄暗い廊下に残った。
辺りは深(しん)として、忍びやかな静寂が流れている。
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