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白む空に、薄紅の花が風に攫われ舞う夜明け。
夜露に濡れしっとりと香りを増した桜の園で、宵種(ヨグサ)は軽やかな花吹雪が止むのを待っていた。
此処は人知れぬ場所に隠れて存在する、幻刻郷の東域の地。
悠久の時を巡る桜園は、三人の管理者により守られている。
その一人たる宵種の役目は、夜間の警護と、もう一つ――。
「夜桜の香気に誘われて、捕われちまったようだな」
風が止み、視界を遮断していた花弁が地面に散ると、園内で一番古い桜木の下に一人の少女が佇んでいた。
菊花や扇の柄が華やかな若竹色の着物に身を包んだ彼女は、儚げな表情で古木の花を見上げている。
幼さの残る顔立ちには似合わぬ紅の引かれた唇が、何事かを呟いていた。
「嬢ちゃん、幻刻の郷に長居はしない方が良い。あんたの世界に帰りな」
「……此処が何処かは知らないけれど、帰りたくない」
歳の頃は十三、四だろうか。少女は振り向くと、宵闇色の髪と鋭い碧眼を持つ青年に訊ねた。
「私は千夜璃(チヨリ)。貴方は誰?」
「宵種。この桜園の管理者だ」
「そう……綺麗で静かで、良い所ね。私も望めば、管理人になれるかしら」
「そいつは無理だ。此処は人間が居るべき場所じゃねえんだよ」
告げながら、宵種は前髪を掻き上げる。
露となったその額には、第三の眸があった。碧ではなく、漆黒だ。
千夜璃は息を呑んだが、さほど驚いたようにも見えない。此処が異界である事を、彼女なりに受け入れている故だろうか。
「此処に居続けたら、私はどうなるの?」
「幻刻の桜に捕われた魂は、桜に喰われて散るのさ。そうなりゃ、好いた相手との来世での再会も果たせなくなるぜ」
それを聞いた千夜璃の心に、迷いが生じる。
「……私、婚約者が居たの。歳は離れていたけれど、優しい人で……けれども戦争で死んでしまった。そうしたら両親が、すぐに別の人との婚約を決めてきて……」
「親なりに、嬢ちゃんの将来を案じてるんだろう」
絹糸のように艶やかに梳(クシケズ)られた黒髪や、豪華な染めの着物を見るに、裕福な家の娘なのだろう。
千夜璃は俯き、漆塗りの草履の爪先を暫く見下ろした後で、ゆっくりと顔を上げた。
「新しい婚約者も、優しい人かしら?」
「さあな。自分で確かめろ」
横柄で言葉遣いも悪いが穏やかな彼の三眸に、千夜璃は微笑んで頷く。
「じゃあ道を作ってやるから、ちゃんと帰れよ」
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