一日目 Signal transduction

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 フシュー、とまたあの音が聴こえた。防護服の中に酸素ボンベを抱えているのだろうか。自然と私はそのように想像した。 『君は自分について何か憶えているかね』 「……何も」  ひとつだけ気付いたことがある。視界が、一定のレベルでぼやけていて安定しない。そこから推測するに、私は眼鏡などの視力補正の道具を必要とする人種だろう。吐息で防護服が曇っている所為もあるだろうが、私の弱い視力と相まって男の顔はどうしても見えなかった。 『歳とか、名前とか、人間関係についても? じっくり考えてもいいのだよ』 「言ったはずだ。わからないものはわからない」  中年男の呑気なトーンに、私は若干しびれを切らす。  本当はひとつ思い出せたことがあった。  夢の中で私は学生時代の記憶をなぞっていた。大学院生だった頃に受けた、とある教授の講義の一片を。だが見ず知らずの、まるで信用ならない防護服男に、それを話す気にはならない。 『ではこちらの知る情報を教えよう。君は三十三歳男性、日本という極東の島国を故郷としている。とある遺伝子研究のラボに勤務していたが、不幸な事件に巻き込まれてこんなことになってしまっている。ああ、僕はこの件を任されているチームの主任だ』  ――不幸な事件。  なんて恐ろしい響きだ。私はその詳細を訊ねる勇気が、まだ持てなかった。 「今貴方が羅列した個人情報の中に、私の名前が無かった。それは教えてはくれないのか」 『いや。実は我々にもわからないんだ』 「どういうことだ」 『ラボに勤務していた同年代の日本人男性は他に三人も居てね。君たちを識別する為のデータが今は入手困難となっている。君が四名の内の誰かであることは間違いないハズだけど』  主任とやらは肩を竦めてみせた。逆さで見るその動作には、何故かイラッとした。 「貴方が私の記憶を消したのか」 『そんなことはしていないよ。君が記憶を失った理由ははっきりとはわからない。外傷はないはずだから、精神的にショックを受けたのではないかな。脳震盪の線も弱い』  言われてみれば、革ベルトに擦れた手首以外、特に痛いとか違和感のある箇所は無い。五体満足、と言っていいのかは謎だが、怪我はしていないようだった。 『でもそれはいいんだ。君は自分が誰であったのか思い出さない方がいい。執着が沸いてしまうからね』 「どういう意味だ」  私は知らず声を低くしていた。
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