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姿なき通り魔の断章
しとしと雨が降る、風のやんだ少し肌寒い夜だった。
田所敬一は家路を急いでいた。白のヴィニール傘を差し、早足で歩く。
(徳丸のやつ、だいぶ呑んでるな)
毎週土曜日定番の残業を終え、電車を乗り継ぎ、最寄り駅に着いたのは夜の9時過ぎ。
飲む約束をしていた男から、遅いと先ほど電話があった。夫の自分を差し置いて良子に晩酌させ、心地良く酔っ払った親友の姿が脳裡に浮かぶ。
(和也は無事に塾から帰ってるだろうか)
15歳になる一人息子の、和也のことも気になる。
最近この辺りの地域で、若い女性を刃物で襲う通り魔が出没するようになったらしい。死者は出ていないが、すでに被害は三人に及ぶ。犯人はまだ捕まっていない。何度かニュースで報道され、警察や自治体も盛んに注意を促していた。
人通りのない路地を急ぐ。街灯がなく、暗くて危ないといっても、この道は最短ルートなのだ。
これ以上親友や家族を待たせるわけにはいかないし、狭いながらも心安らぐ我が家に早く帰りたかった。それにこの近道は、田所敬一のいつもと変わりない、いつもの歩き慣れた帰宅コースだから、さほど心配することはないはず。
だったのだが──。
しゅっ
と不意に小さいが奇妙な音がして、見えない何かが近づいて来た。
反射的に傘の前方を上げ、田所敬一は周囲を見回す。しかし視界には、誰の姿もなかった。
その刹那、
すぱっ
田所敬一は何か厭な音を聴いた。
傘が宙を舞う。
自分の身に何が起こったのか、わけがわからないまま呆然としていると、
ぶ
ぶ
ぶ
ぶ
ぶ
ぶ
ぶ
ぶ
ぶ
という生々しい連続音がすぐ耳元で鳴った。
あっ!? ──と声を上げる間もなく、力を失って田所敬一はその場に横転した。
しゅう
しゅう
ごぼごぼっ
しゅう
しゅう
ごぼごぼっ……
首が熱い。灼けるような熱を感じる。と同時に、強烈な痛みが襲ってきた。
急激に薄れゆく意識の中、自分の周りに全く人の気配がないことを不思議に感じ、田所敬一はつぶやいた。
「か、ま……ぃた……」
しゅうしゅうごぼごぼっと頸部の切断面から空気が漏れるため、田所敬一の最期の言葉は上手く声にならなかった。
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