黒縁眼鏡と給湯室

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バタンと音を立てて閉まるドアに、安堵と疲労感を覚えて吐き出した溜め息。 『真理さん、好き。すっごい好き。』 どうしよう…頭にも、耳にも渋谷が残ってる。 …身体にも…唇にも。 放心状態でいる私の隣に亨が並び、咳払いをした。 「…何?どの書類の事?」 「え?」 「渋谷が言ってたやつ」 「ああ…うん。」 いけない、折角渋谷が機転を利かせてくれたんだから、私もそれに合わせないと。 「そ、それはね、大丈夫だったから!」 一生懸命に笑顔を作ってみたものの、亨は怪訝な顔のまま。取り繕うのが苦手な上に相手は長年一緒に居た亨だし、誤摩化せないのは目に見えてる。ここはもう、逃げる以外に術はないと思った。 「と、とりあえず戻ろうか…。」 急いでドアに向かって足を踏み出した私の腕を亨が強い力で掴む。 「…最近、渋谷と随分仲良しみたいだけど。」 「そ、そういうわけじゃ…」 「だったらいいけど。あまりにも渋谷ばかり可愛がってると、ほかの連中だって面白くないだろ?その辺わきまえろよ。」 こうして亨を間近で見たのは数ヶ月ぶり。 少し細めの切れ長の目の奥で、黒深い瞳が光を放つ。いつも笑顔で柔らかい印象がある亨だけど、時々こうして、あまり目が笑っていないと思う瞬間があった。 今日は特に…久しぶりに見たからだろうか、冷たさを感じるその目線に、更に恐さを感じて背中が少しゾクリと音を立てた。 「亨…腕、離し…て?」 一瞬、我に返ったように目を見開く亨。 「あの…私、今日は橘さんのイベントの打ち合わせで東栄デパートに行くから。そのまま直帰する。」 「ああ…ワークショップ開催は月末か。うちの課では、結構デカイ、イベントだからな。頼んだ」 軽く背中を叩く彼は、いつもの柔らかい雰囲気に戻っていた。 …今までも。何度かあの目を見た事はあった。けれども真剣な眼差しとしか解釈していなくて、それ以上、その意味を考えた事はなかった。 後で思えば本当はそこに彼の本音が隠れていたのかもしれない。 だけど、渋谷でだいぶ頭の中が埋まっていた私には、この時、亨を想いやるなんて言う事が出来なかった。
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