海へ

2/16
19人が本棚に入れています
本棚に追加
/93ページ
元弘3年(正慶2年)5月22日、日本中が激震した。 およそ150年もの長きに渡り続いてきた鎌倉幕府が、幕を閉じたのである。 5月7日足利高氏が佐々木道誉や赤松則村らと呼応して六波羅探題を攻め落とし、京都を制圧したのを皮切りに、9日には東国に逃れようとした六波羅の残党を近江国にて誅滅し、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らを捉えた。 源氏の名門新田義貞も満を持して上野の国挙兵すると、高氏の嫡子らと合流。 小手指ヶ原の戦いや分倍河原の戦いで勝利した後、幕府勢を鎌倉に追い詰めた。 幕府軍も鎌倉の切り通しで奮戦したが、それも虚しく新田義貞が海岸線から攻め上がると崩れ始め、名だたる要人が戦死していく。 北条氏の菩提寺であった東勝寺に至り、ついに5月22日北条高時以下、皆自害して果てた。 その数、およそ800名とも伝えられる。 田楽や闘犬に興じた暗君として伝わる高時だが、その本性は病弱で、虚弱であったと言う。 手本となる人も居らず、後年の荒んだ父親を見てきた彼は、禅僧と親交を持ち、仏画などにも親しんだ文化人であった。 彼を暗君たらしめたのは、言うなれば時代そのものであったかもしれない。 そして、時をほぼ同じくして九州でも、鎮西探題の北条英時が博多の鎮西館にて自刃した。 少弐貞経、大友貞宗、島津貞久らに攻めたてられ、追い詰められての事だ。 武光の父が後醍醐天皇の令旨を奉じて攻めた時は、誰一人同調する者もおらず悲憤の内に戦死した。 あれから、わずか2か月の後の出来事であった。
/93ページ

最初のコメントを投稿しよう!