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お勧めで任されるようになったのは、彼女が目の下に隈を作って訪れた夜だった。
「こんばんは、いらっしゃいませ」
「……こんばんは」
声には力がなかった。奥の窓際の席に座り、メニューを見るというよりは、ぼんやりと眺めている。
「今夜は僕のお勧めにしてみませんか?」
だから、申し出た。彼女は、その言葉にはっと顔を上げて「じゃあ、お願いします」と答えた。そこには微かな期待が生まれていた。それを嬉しく感じながら厨房に入った。
深煎りの豆を挽いて丁寧に淹れる。仕上げにリキュールを垂らして、生クリームを乗せた。
「お待たせいたしました」
「……カプチーノですか? あれ、でも香りが……」
「カフェ・カルーアです。気持ちがやわらいで眠りやすくなりますよ」
彼女はカップを見つめていた。絡まって止まってしまっていた心のなかの何かが、ふつりとほどけたようだった。それが、彼女の瞳から分かった。
「……お医者さんみたい。私のこと、一目で見抜いちゃうなんて」
少し表情を明るくして、スプーンで生クリームをかき混ぜてからカップに口をつける。凍えた何かを温めるように、両手でカップをおし包みながら飲んで深く息をついた。
「……おいしい。カルーアミルクなら飲んだことあるけど、香りが全然違いますね」
「ありがとうございます。今夜は眠れそうですか?」
「はい、こんなにおいしいお薬を飲めたら、嫌な夢も跳ね返してくれそうです」
「よかったです。どうぞごゆっくり」
ほんのカップ一杯分の元気。それをもたらすことができて、笑顔が自然とわいてくる。彼女はもう一口飲んで、一瞬動きを止め、それから顔をこちらに向けた。
「……あの、私コーヒーには詳しくなくて。これからはマスターにお任せしてもいいですか?」
喫茶店を始めて10年以上になるけれど、メニューを任されるのは初めてだった。大抵の客はお気に入りのコーヒーを見つけるまで何度か違うコーヒーを注文して、それからは「いつもの」と言うようになる。
でも、彼女の些細な変化を見てとり、そのときに合ったコーヒーを淹れることは面倒だと感じない。むしろ、楽しみになってきた。
「構いませんよ、やりがいのある仕事になりそうですね」
「ありがとうございます、早く明日にならないかなって思えてきました。明日のコーヒーが楽しみ」
彼女が顔をほころばせた。
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