岬にて

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新婚とはいえ、慌ただしく過ぎていく新生活の中で、 ふとした折々に友弘は感じるようになっていた。 綾子の瞳が自分を通してどこか遠くを見ている、と。 綾子の視線の向かう先が、兄の良弘ではないかと、 そう思ったのはいつだっただろう。 疑念はそのうち確信に変わり、 友弘は海辺の街への旅行の話題を、注意深く避けるようになった。 綾子の海辺の思い出の中には、きっと良弘がいる。 それだけで、友弘は言い知れぬ不安と敗北感に苛まれた。 まだ中学生だった綾子が、渡米留学の直前、 友弘を振り切って、最後に良弘を求めて雨の中を駆け去った姿。 すっかり忘れたつもりでいた、15年も前の、雨に濡れそぼったセーラー服の綾子が、いつも鮮やかに蘇り、 友弘の脳裡をちらついた。 やがて、雨音そのものが友弘を蝕んでいく。 雨のたびに狂ったように執拗に綾子を求める友弘を、 綾子は毎夜毎夜、何も言わずに受け止めていた。 そして友弘のほうが先に耐えられなくなって、 自ら綾子の手を放したのだ。 今日は、よく晴れている。 陽射しを反射する波が、煌めく光の点となって、海面を踊っている。 次の岬を過ぎたら、道は海岸から離れ、 すぐに海水浴場のあるあの岬への、最寄りバス停があるはずだ。 友弘にとってその街は、記憶もおぼろで場所など皆目わからなかったが、 結婚生活を送った三年間、わざと何も調べず、目を逸らし続けてきた。 今回、実家の母親に尋ねて初めて、 良弘が学生時代に下宿していたのがその街であり、 良弘の生みの母親の故郷なのだと知った。 綾子はおそらく、すべてを知っていたのだろう。 早くに調べていれば、あるいはもう少し早く、 踏ん切りがついたのかもしれない。 それでもようやく綾子の手を放すことができた今、 友弘はただ、綾子の瞳に映っていた、幼い自分と良弘の記憶を、 その目で確かめたかった。 ずっと目を背け続けてきたその風景にきちんと向き合わない限り、 どこにも行けない気がしていた。 自分の気持ちの整理が本当についているのだと、 ただ自分をそう納得させたかっただけなのかもしれない。 『次は松輪海岸~松輪海岸でございます。お降りのかたは~……』 車内アナウンスを聴いて、 軋みそうになる胸に無理矢理蓋をしながら、友弘はバスを降りた。 幹線道路脇にポツンと立つ、バス停の標識。 確か、バス停から少し歩くはずだ。
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