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「……ちょっと窓際に寄れよ」
良弘の声に綾子が顔を上げると、良弘が煙草をくわえ、
椅子を引きずって綾子の隣に移動してきていた。
「……何?」
「何って、そりゃこっちのセリフだ。いきなりボロボロ泣き出しやがって、この野郎。
俺が泣かせたみてぇじゃねぇか」
「あ……あれ? 私、泣いてる」
「まったく……。
そんな顔してる時はお前、どうせ何も話しやしねぇんだろ。
せめて衝立になっててやる。好きなだけ泣け、阿呆」
「……うん」
「禁煙でなくて助かった。
最近の喫茶店はほとんど全面禁煙だもんなあ。
ただし、あと5本しかないから、そこんとこよろしく」
ライターの音がして、良弘の大きな身体から、ゆったりと薄い煙の幕が立ち上り、窓際の席を包んでいく。
煙を毛嫌いしている綾子だが、
この時は少しだけ、煙を優しいと思った。
綾子の前では普段はほとんど煙草を吸わない良弘。
ふてくされたように、それでいて心配げに綾子を覗きこむ良弘の顔を、
綾子はよく知っている。
いつも――そんな顔をさせている。
後悔も、塞がらない傷も、ただ傍で見ていてくれる人。
逃げ出す訳でなく、かといって手助けする訳でなく。
でも、必ず傍にいる人。
それでいい。そう望んだのは、私だ。
冷めきった綾子のキリマンジャロのソーサーの周りに、
点々と、新たな温かな雫が落ちる。
空になった良弘のレモンスカッシュのグラスは、氷さえすっかり溶けて、
グラスの外側から流れ落ちた水滴が、テーブルに大きな水溜まりを作っている。
あの時泣けなかった、行き場のない二人分の涙を、
路地の行き止まりにあるこの店の丸テーブルが、
紫煙に包んで、今、受け止めていた。
Fin.
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