袋小路

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あの時、同じこの席で。 『家で渡すより、事務的な感じで気楽だろ?』 湯気の立ち昇るキリマンジャロのカップの横に滑らされた、離婚届。 レモンスカッシュのストローをくわえながら、何でもないことのように友弘は言った。 『俺のとこはもう記入してあるから。 お前が記入してくれたら、区役所に出してくる。 で、そのまま辞表を出すよ』 『辞表、って、会社まで辞めるの!?』 思わず用紙から顔を上げた綾子に、 友弘は微笑んだ。 『引き継ぎはきちんとやる、心配するな。 婿入りした元ダンナが、籍抜いた後いつまでも秘書やってちゃ、お前もやりにくいだろ。 離婚報道もその方が早く鎮火するだろうし、東條グループの信用のためにもな』 『でも……でも、何も辞めなくても』 友弘の微笑みが歪んだ。 『……苦しいんだ、お前のそばにいるのが。 情けない男でごめん』 『私……私は』 『どんなお前でもまるごと引き受けてやれる度量が、俺にはないんだ。 わかってたのに、お前を離したくなかった。 今までずるずる付き合わせて、ごめん』 ずっと別の男を――しかも友弘の兄を、心に住まわせていた綾子を、 友弘は問い詰めることもせず、 そう言って頭を下げた。 もちろん、友弘との結婚は、決して打算だけで決めた訳ではない。 友弘は、ぶっきらぼうでも、口は悪くても、 いつも綾子を案じ、綾子のわがままに付き合ってくれる、ひとつ年上の優しい幼なじみだった。 お互い東條グループの一員として再会し、 役員と社員、立場は違っても、 友弘への信頼は綾子の中では変わらなかった。 ただ、東條グループの顔としてこの先歩いて行かねばならない綾子は、 友弘の自分への愛情を『結婚』という形で利用したという負い目を、捨て切れないでいた。 友弘が、自分のパートナーとして共に東條グループを背負うに足る人材だったから。 そして、良弘――友弘の兄と、この先少しでもつながりが持てる、と密かに期待した自分が、 確かにそこにいたから。 だから、苦しくて。 それをわかっていて友弘を巻き込んだのは、他でもない自分なのに、 友弘ごしにいつも良弘を見ている自分が、やり切れなくて。 綾子の思いを薄々知っている友弘が、 満たされない心を抱えたまま、 次第に壊れていくのを見るのが、つらくて。 あの頃の二人は、出口の見えない袋小路をさまよい、 先に音を上げたのが、友弘だったのだ。
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