中毒者

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「業務に割く時間が失われることへの危惧を君は指摘したわけだが、はたして君が便所に立つ時間と、俺が喫煙所へと立ち寄る時間。どちらが長いだろうな。君の頻尿も相当なものだぞ」  いつの間にかまったく立場が入れ替わってしまった。私はもう何を言われても情けない声を上げることしかできなくなっていたのだ。膀胱への意識を少しでもそらせてしまうと部長室で大粗相を犯してしまう。だがしかし、ここで便所へ立てば、私の答弁は水泡に帰してしまうのは必定である。 「君は喫煙を健康被害の側面から糾弾したが、カフェインの過剰摂取こそ身体にとっては害悪だぞ。なにせ、こっちの中毒には即効性がある。欧米では、カフェイン中毒による死人も出ているんだ」  もはや怒涛の勢いで繰り出される椎名の反論は、馬耳東風で抜けていく。私は思わず、黙してやり取りを聞いていた部長に助けを求めた。もう時間がない。この好々爺の最後の審判に命運をゆだねるしかなかった。  だが、それは私の意に反して、ことなかれ主義の部長らしい、ある意味では最悪の結末へと収束していった。 「両人の主張はよく分かった。また、いずれの意見にも筋が通っている。どうだろう、両者採用というのは。つまり椎名君には禁煙を、そして君には……」  部長の「コーヒー禁止を」という言葉をみなまで聞けず、私は部長室を飛び出して便所へとさながらメロスのごときスピードで駆けていった。それを肯定ととられたらしく、この折衷案はなんと可決されてしまったのである。
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