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「そんなこと?」
南朋は、そのときの周の顔を、たぶん一生忘れないだろうと思った。
それはそれまで一度だって見たことのないような苦悩の表情だった――いや、きっと南朋がただ気づいていなかっただけで、それは周がずっと胸の内にしまってきた感情だったのだ。そのことに唐突に気づくと、急に自分が恥ずかしくなった。ほんの数時間前、共に罰を受ける覚悟はできているなんて目を潤ませていた自分は、なんと浅はかで独りよがりだったんだろう。周のその顔には、南朋の才能への嫉妬、羨望、そして南朋を残し、舞台上にいることの優越感、人々を騙し続ける罪悪感、南朋が苦しみ、南朋を翻弄してきたすべての感情の裏返しがあった。その感情たちに周もまた苦しめられ続けてきたことを、南朋は残酷にもこのとき初めて知ったのだ。
「僕が今までずっと、君のことを羨ましがらずにいたと思うのか……?」
周が南朋の肩を掴み、ぎゅっと力が込められる。
「君になれるなら、君になりたいと、何度神に祈ったことか」
膝の上にポタリと滴が落ちた。それはじわりと音もなく広がり、黒い染みになった。
南朋は知らなかった。いや、気がつきもしなかった。
「……いいか、君の音楽は死なせちゃならないんだ」
周の赤く充血した眼が、一層大きくなる。
「君はまだ、後世に何十年、何百年と残るような名曲を、もっと、もっと書かなければいけない。それが神が君に与えた役目なんだ。人は僕のことなんてきっとすぐに忘れてしまうけれど、君の音楽はそうじゃない」
「そんなこと」
「いや、そうなんだ」
そうなんだ、と周はもう一度小さな声でつぶやいた。
「それじゃあ、お前の役目はなんだっていうんだ……?」
「僕の、役目……?」
ふいに、周は魂を抜かれた人形のような目をした。そして何かを振り払うようにぎゅっと目をつぶり、一息吐くと、もう一度目を開いた。そして、きっぱりとした口調で言った。
「僕の役目は、天才アマデウスの本当の音を、今、この世界に響かせることだ」
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