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学院長室をあとにした僕は、廊下の途中で一人の生徒に呼び止められた。その顔に見覚えはなく、彼がなぜ自分の名前を知っているのかわからなかった。
自分のものとはちがう赤いネクタイで中等部の生徒だとわかる。背は僕の肩くらいまでしかなく、見た目も青年と呼ぶのを躊躇うほどには幼かった。その見知らぬ少年は甲高いソプラノの声で僕に訊ねた。
「戸上南朋さんですか?」
「……そうだけど」
次の瞬間、少年の赤く充血した目からぽろぽろと透明の滴を流れた。少年は声にならない叫びを喉から絞り出すようにして叫んだ。
「どうしてっ……アマデウスが死んでしまった……!」
天才アマデウスが死んだ――
学院はいまだに、二日前の嵐の晩にもたらされたその突然の訃報の話で持ちきりだった。
若き天才アマデウス。本名を行天周(ぎょうてんあまね)というその作曲科の生徒は、このアカデミー内で知らぬ者がいない、有名で優秀な生徒の一人だった。今年の春、彼は突如地上に落ちてきた彗星のようにこの芸術アカデミーに現れ、その類まれなる音楽の才能と、日本人の母にドイツ人の父親を持つ彼の華やかで甘いルックスであっという間にみんなの心を魅了してしまった。この学院の一体何人が、彼に憧れ、彼になりたいと心の底から切望しただろう。
彼もまた、そんなアマデウスという存在に強く引きつけられた生徒なのだろう。洗面台で涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を洗っている少年を見ながら僕は思った。
「僕は三之大和(みゆきやまと)。アマデウスのファンなんだ」
青いハンカチで顔を拭きながら、大和と名乗った少年は案の定そう言った。
「彼は歴史に名を残すはずだった。それほどまでに偉大な音楽家だったのに、こんなに若くしてその才能が消えてしまうなんて、神様は恐ろしく残酷だよね……」
「そうかもね」
「あなたはそうは思わないの?」
気のない返事が純粋なアマデウスファンの気を損ねたらしい。だが、僕はうんざりする気持ちを隠すことなく続けた。
「この学院にアマデウスのファンを名乗る者は多い――けど、彼は目を引く容姿だったし、そのファンとやらが本当にアマデウスの音楽だけを評価していたのかは甚だ疑問だね」
「……どういう意味?」
「別に」
僕はそっけなく答えた。
「彼の外見に惹かれていただけの学生も多いって話だ」
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