先輩の笑顔

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「乗って。」 躊躇う私に先輩が声を掛けた。この場合、後部座席に座るべき? 迷いながら、後部ドアに手を掛けると、 「何で後ろ?こっち。」 という声と共に助手席のドアが開いた。先輩が運転席から手を伸ばして開けてくれたんだ。 「失礼します。」 と頭を下げて助手席に座ると、一生先輩は変な奴と笑った。 でも、私だって彼氏の車の助手席に自分以外の女が乗るのは嫌だった。 そういうことって結構わかるものだから。クッションの位置とか残り香とかで。 あれ?って思うことはあったのに、そんなはずないと自分を誤魔化していた。彼が浮気なんかするはずないって思い込もうとしていた。 本当に信じているなら、疑問に思った時にすぐに聞けたはずなのに。どうしても聞けなかった私は、結局彼のことを信じ切れていなかったんだろう。 「何森?」 先輩の声にハッとした。 「ごめんなさい。ボーっとして。」 「ナビに住所打ち込んでって言ったんだ。」 「ああ、はい。」 私が住所を入力すると、ナビがルートを検索した。それを見ながら、先輩が車を発進させた。 「なんか、変な感じですね。先輩が運転してるのって。」 「なんだよ、それ。普通、カッコいいって言うんじゃないか?」 うん。確かにカッコいい。でも、やっぱり違和感があるのは、私の中の先輩が高校生で止まっているからなのかもしれない。 「はいはい。先輩は何やってもカッコいいですよ。」 「そこまで言うと嘘っぽい。」 軽口を叩き合っていると、10年も経ったなんて嘘みたいに思えてくる。 昨日まであの3階の角の音楽室に一緒にいたような気さえする。 「おまえ、もう歌ってないのか?」 突然、そんなことを聞かれて胸がざわついた。 合唱はあれ以来やっていない。でも、今でも時々夢を見る。どうしてもハイベーが出ない夢。 「歌う機会なんてありませんもん。」 そう答えたけど、その気になれば市民合唱団だとかカルチャースクールのゴスペルコースだとかいろいろあることはわかっている。 私は怖いだけだ。もう声が出ない事実を突き付けられるのが。 「ママさんコーラスとかあるだろ?」 「まだママさんじゃありませんから。」 「そうか。」 うーん。私って、子持ちに見えるんだろうか。軽くショック。
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