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「先輩は歌ってるんですか?」
「全然。カラオケに誘われて行っても絶対に歌わない。元々俺、下手だったから。」
確かに先輩はすごく歌が上手いというわけじゃなかった。それでも部長をやっていたのは、リーダーシップがあるからだった。
「またまた。てっきり先輩は大学のグリークラブかなんかに入っているんだと思ってましたよ。」
「人前で歌う勇気はもうないなぁ。何森の前でなら歌えそうだけど。そうだ。今度2人でカラオケに行かないか?」
「カラオケに合唱曲ってあるんでしたっけ?でも、アルトとテナーだけで歌ってもダメか。」
クスクス笑ったのは、私もカラオケで歌うのが苦手だから。真面目に流行りの歌を歌うことが気恥ずかしくて、つい一昔前のアニソンなんかを歌ってしまう。
「俺らが歌ってたような本格的な合唱組曲はさすがにないだろう?普通の歌、歌えよ。久しぶりに何森の生歌が聞きたくなった。」
「何ですか?生歌って。私、歌手でも何でもないですよ?」
「んー。ちょっと待って。」
そう言うと車を路肩に停めた先輩はポケットから携帯を取り出した。そのまま、何やら操作して私に向けた。
すぐに聞こえてきたのは、あの『君のいる未来』のソロ部分の一番盛り上がるところ。
「え、これって…」
「これ、俺の目覚まし。毎朝、何森の歌声で起きてるんだ。」
先輩はあのキュートな笑顔で、サラッととんでもないことを言った。
よく考えてみれば、先輩にとってあの組曲は自分の大事な作品なわけで、その中でもこのソロパートのメロディーが一番のお気に入りだったから、アラームに設定しているというだけだ。
そう頭ではわかっていても、この10年間、先輩の近くに私の歌声があり続けたことが嬉しくて仕方ない。
と同時に、寛容な彼女さんに申し訳ない気がした。嬉しいと思ってしまった自分が。
お尻の脇のピンクのクッションを撫でて、先輩の隣にいる女性はどんな人なんだろうと想像してみた。
きっと大学か職場で出会ったんだろう。先輩が合コンで彼女を見つけるというのは想像できなかった。
大人っぽくて包み込むような優しさのある美人さん?ちょっと俺様的なところのある先輩が甘えられるような年上の女性かも。
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