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「あの正面の緑色のアパートです。」
「あれ?」
先輩の声が怪訝そうに響いたのは、うちのアパートが見るからに単身者向けの狭そうな外観だからだろう。とてもファミリー向けには見えない。
実際、住んでいるのは単身者ばかりだし、私自身独り者なわけだけど。それでも、夫婦2人で住めないわけじゃないし。
「ここでいい?」
車を停めて先輩が尋ねたのは、アパートの入り口のギリギリのところだった。傘を差さずに入れるところまで車を寄せてくれた。
「はい。ありがとうございました。本当に助かりました。」
助手席で深々と頭を下げると、先輩はヒラヒラと手を振った。
「いやいや。こちらこそ、久しぶりに何森と話せて楽しかったよ。」
「あの、先輩。私、ずっと一生先輩に謝らなきゃって思ってたんです。卒業式の日のことを。」
意を決して私がそう切り出すと、先輩は驚いたように目を見開いた。
「最後に先輩にちゃんとお礼を言おうと思って、お別れのプレゼントも用意していたのに結局渡せなくて、本当にすみませんでした。」
運転席に頭を下げた私に、先輩の深いため息が聞こえた。
「俺もおまえに言いたいことがあったんだ。なのに…なんで中庭に来なかった?」
「…行きました。行ったけど、ちょうど理子が先輩に告白してたから、邪魔しちゃ悪いと思って声を掛けられないまま帰っちゃったんです。」
「え?!おまえ、来たのか?」
盗み聞きしていたことを咎められるかと思ったのに、そこはスルーして先輩が聞き返した。
「ちゃんと行きましたよ。先輩がミモザの木の下に立ってるのも見ました。
…すみません。人のラブシーンなんて見たことなかったからビックリしちゃって。でも、後からお礼も言わないなんて失礼だったなと反省しました。」
「別にラブシーンなんてもんじゃなかったし。でも、そうか。そうだったのか。」
少し顔を赤らめた先輩が、それを隠すように左手で顔を覆った。そんな照れた時の仕草もあの頃のままだった。
「俺はさ、おまえは中庭に来なかったんだと思ったから、そういうことかって諦めたんだ。でも、そうじゃなかったんだ。」
やっぱり一生先輩は私を恩知らずの冷たい後輩だと思ったみたいだ。
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