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《一》
時は明治時代──
文明開化の流れにより、街には西洋からの文化と、江戸からのしきたりを守ろうとするものが入り乱れ、混沌としたこの国の行く末を案じながら、今日も僕は原稿用紙と睨み合っていた。
職業はと問われれば、一応は文学で生計を立ててはいたが、“文豪”などと呼ぶには甚だ程遠く、二十歳も疾うに過ぎながら、商い長家二階の四畳半を間借りする、それはまるで書生のような暮らしをしていた。
反自然主義と呼ばれる、漱石先生や谷崎先生に憧れながらも、本当は実篤先生のような純文学を書いてみたいと心の底では思っていた。
しかし、無名の文芸誌にたった一本の連載を抱える、自分のようなこれまた無名な作家は、この世に掃き捨てる程いる。
そんな自分が“何を書きたい”などと選べる訳もなく、また日の目を見る兆しもなく、しかし、文学でこの名を──
及川昇之介という我が名を後世に残したいという野望も捨て切れずにいた。
だが、そんな焦りの募る自分にも、心の寄りどころとも言える存在の人がいた。
週に一度ここを訪ねてくる編集者の彼、花岡大和である。
その彼だけは、いつもそんな自分の文学を理解し、ただ、僕の文章を“面白い”と言ってくれるのだった。
僕はそんな彼と居る事を幸せと思っていた。自分の文学の唯一の理解者だからなのか。
それとも、それとは全く別の感情。
すなわち邪な──例えば恋などという浮き足立った感情なのかは、自身でも図り兼ねていた。
だがとにかく、彼とは何でも語り合う事ができ、彼の前では何も飾らぬただ一個の人間でいることができたのだ。
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