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ねえ、と彼女は言った。
「もしもある日、記憶が綺麗さっぱり失われてしまったとしたら、どうする?」
僕は彼女の髪を切る手を、一旦止めて考える。
「困りますね。……カットの仕方だけでも、覚えていられたらいいんですけど」
「真面目だなあ」
「いえ。他に、できることがないので」
忘れてしまったら、どうやって食べていけばいいのか分からない。
「橋本さんは、どうされるんですか?」
「え?」
「記憶をなくしたら」
さらさらと、彼女の髪が僕の足元へと落ちていく。
彼女は、ひと月に一度この店を訪れる、僕の固定客のひとりだ。もう、一年ほどの付き合いになる。
「うーん……、そうだなあ。確かに、困るでしょうね」
でも、と彼女は言う。
「きっと、変わらないんじゃないかな。また取り戻せるよ。それが本当に、自分にとって大切なことなら」
そうかもしれない。
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