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「記憶がなくなったら、この店にも来られなくなるかもしれないよ。君の客が、ひとり減ることになるね」
「それは、困りますね」
「でしょう」
記憶がなくなっても、彼女はまたこの店に来てくれるだろうか。僕を指名してくれるだろうか。
ふと、そんなことを考えた。
「とりあえず、君が記憶をなくしたら、真っ先に会いに行くことにしようかな」
「どうしてですか」
鏡越しに、彼女が微笑む。
「あなたの恋人です、って言ったら、信じてくれるかもしれない」
「そうですね。信じるかもしれません」
「だったら、婚約者の方がいいかな」
僕が記憶を失ったら、婚約者ができるらしい。急展開である。
「それは……、さすがに気付くんじゃないでしょうか」
「友達からにする?」
「そうしてください」
ドライヤーを当て、彼女のショートボブを内巻きに整える。やわらかな髪が、綿菓子のようなまるみを帯びていく。
友達でさえ、ないが。
月に一度、髪に触れ、言葉を交わす。
この距離を愛おしいと思う心は、記憶をなくしても残るだろうか。
本当に大切なことなら、と僕は祈るように胸の内で呟いた。
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