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タバコの匂いを嗅いでも水瓶(みずがめ)のことは思い出さない。俺が彼を思い出すのは、コーヒーの匂いを嗅いだときである。
それもその筈、俺が水瓶率いる劇団員と毎日と言っていいほど顔を合わせていた頃、味と香りのするタバコが発売された。名前はたしか、『スターズバックコーヒー』──長ったらしい名前だったので逆によく覚えている。
タバコが苦手な人、後味の臭さを嫌がる人のために開発された筈だったのに、匂いはともかくあまりにもコーヒーが過ぎるということで、愛煙家から逆に煙たがられて瞬く間に定番レースから外れて星屑となった。
げんに、俺の周りにも喫煙者は何人かいたが、水瓶しか吸っている人間はいなかった。
彼は目を細めてよく言った。
「いやあ、旨いよこれ。いまはコーヒーとタバコ買ったらワンコインどころか札が1枚飛んでいくような時代でしょ? これさえあれば一石二鳥だもんなあ」
しみじみと彼が言うたびに、誰かが「不味いよ」と容赦なく叩きのめすので、この話はいつもここで終わる。のちに劇団は人少なになり、解散した。
水瓶は、いまでも喫煙者だろうか。
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