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その日は朝から晴れていた。
蝉の鳴き声が響き、暑さを更に際立たせていたが、家のリビングにある8畳用のエアコンは負けずに稼働していた。
私は夏休みの宿題である算数のドリルに書かれた小数問題を解いていた。目の前にはドリル、その斜め右上には果汁100%のオレンジジュースが氷に冷やされてグラスに水滴が付いている。テーブルの向かいでは空のグラスに入った氷が溶けて、カランと涼しげな音を立てた。
もちろん妹も私の横に並んで座り、こちらを見てはにこっと微笑みを浮かべていた。
私はこの年の離れた妹が大好きだった。ふんわりした栗色の髪に、桜色の頬、パールの様な色白の肌、そして星を散りばめた様に輝く瞳。……私には無いものを妹は持っていたのだから。
私は宿題を終えると立ち上がり、鉛筆と計算ドリルを棚にしまった。
棚にある【良くわかる連立方程式】【一次関数の解き方】と書かれた参考書をチラリと見ながら、また腰を下ろすと目の前にあったジュースに手を伸ばした。
「雫、宿題は終わったの?」
「ちょっと休憩!残りは帰ってからやるよ」
「帰ってから?ちゃんとやりなさいね。雫は数学は苦手でもやれば出来る子なんだから」
母親はゆっくりと声を掛けた。
今日は午後から1ヶ月に2度程訪れるお客さんが来るらしい。
いつもは父親が誉めたとかでローズ色の口紅なのだが、そのお客さんが来る日は何故かピンク色の口紅を付けていたから分かるのだ。
私達を家から追い出して、会うお客さんは気になるが、知らないふりをしていた。
父親は医師のため泊まり込みになることも多く、母親としては刺激がなかったのかも知れない。何処と無く嬉しそうな乙女の様な姿は父親の前では見たこともないし、きっと楽しみなのだろうと私は思っていた。
「香澄、お菓子食べる?」
「ううん、要らない」
母親はじっと見つめる私に気まずそうにクッキーの乗った白い皿を差し出した。
私も何となく気まずさを感じ、妹の手を引くと椅子から立ち上がった。
「公園に行ってくる」
私は母親にそう告げると、玄関に向かって開け放たれたガラスの扉を通りすぎていった。
「気を付けて行くのよ!知らない人に着いていっちゃダメよ?」
背後から聞こえる母親の【親としての声】を聞きながら、白いスニーカーを履き玄関の扉を開けて出ていった。
それが母親の最後の声になるとは知らずに……。
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